もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト

禅、仏教との類似性(1)

 エックハルトはキリスト教の学者であった。彼の言葉が『神の慰めの書』(講談社)にまとめられている。この小さい紙面で、彼のキリスト教観のすべてをご紹介するのは困難であるが、禅と共通するところを抜き出してみたい。「  」は彼の言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。同じ趣旨のことを示すページは数多いが繁雑であるからごく一部だけ示す。

自分と一体の神を見る

 エックハルトは、次のようなことを言う。  神はいつも我々の内にいて働きかけているが、それが見えない。私は神を信じている、というキリスト教徒が多いだろう。しかしエックハルトはそんなことを言っているのではない。神についての一切の像から離れ神が、実際に近くにおわす、ということである。自分自身が神である、というと一歩間違うと、カルト宗教の教祖のごとく、己れのみが神であるとし、慢心、誇大妄想に堕すが、エックハルトが言うのは、すべての人の自分が神である、ということである。仏教の、すべてのひとの自己の本質が、「心性本清浄」ということに通じるものがある。
 「作り上げられた教義や自分の知性がおおいかくして見えなくなっている」と意訳した原文は「創造せられ作られたものは最高最善のものといえども我々の内なる神の形像を覆い隠し、その麗色を奪い衰えさせる」(7)という。仏教においても、思想、見解、自己の知性、我見が、自己の本質を見失わせて、覆いかくしていると表現する。隠されておらず、見ても、見えない状態で、自覚できなくなっていることを意味する。
 いつも神は自分と共におわすが、神は自分の外におわす絶対者であるかのような見解への執著、我執などのゆえに、自覚できず、神の善きものから離れている。仏教でも、法華経の「長者窮子」の譬喩で同様のことを言う。すでに、ブッダの世界に住んでいなががら、それを自覚せず、迷い、自分で悩み、他者を傷つけている。
 このように言うエックハルトの言葉ぼ「神」を、仏性、清浄心、自己の本性と、置き換えれば、仏教になってしまう。真の自己を證得したものは、覚者、仏である。神を知るものは、被造物を知る、ということは、作られたもの(客観)と、人の真相(主観)がわかるというのである。そのような自己を證得したものは、仏教では、一切智、一切種智を得るというが、エックハルトの言うのと通じるものがある。
 エックハルトが、こういうからには、彼には「神を見た」体験があるに違いない。その神は自己の内にあり、形像、教義から離れている。人間の体験は、東洋でも西洋でも、違いはないであろう。体験を通して出てきたエックハルトの言葉が、仏教の言葉と類似している。これは、その根本体験が東西同じであるためではないかと思うのであるが、学問的には、これを解明するのは、今後のことである。  自己の外に神を描き、死後の天国のおわすと考える神とは、この生において、神と合一はできないが、エックハルトは、神と合一できるという。神とひとつにならずにいて、今幸福だと思っている満足などは小さいものなのである。自己と神の真実の姿を知っていない。人は神と似ているので、それから離れていると満足できず、苦悩し、他者を傷つける。このことを、仏教や禅では、誰でも、その本性は、清浄心である、本来仏である、という。その神であることと、仏であることが、同一なのかどうか、学問的な解明は、今後のことである。私は、同一だと思う。
   
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