もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学

エックハルト小伝

   エックハルトは1260年頃、ドイツのチューリンゲンに近いところに生まれて、若くしてドミニクス教団のエルフェルト修道院に入った。彼は頭角を現し、ケルン神学大学の教授、エルフェルト修道院長になった後、教団からパリの大学に派遣され教授となった。これにより、マイスターの称号を与えられた。その後、ドイツに召喚されて、六〇の修道院を統括するザクセン地区の指導者に抜擢され、さらにドイツ地区の首長に選出された。再び、彼はパリの大学に派遣されたが、ここでフランチェスコ教団の神学と対決した。
またドイツに帰って、ストラスブルクの神学校の長として教団の中枢的教育にあたった。彼はこの間、修道院を訪問して人々に説教した。当時の教会に満足していなかった人々が彼の説教を聞くために殺到した。
 そうして、教会の中に彼に敵意をいだく者があらわれて、排斥、追放運動が起こった。教会はエックハルトの信奉者を異端であると裁判にかけて処刑させた。エックハルトはそうした高位の宗務者の批判を始めた。一三二六年、ケルンの大司教はエックハルトの追放をローマ法皇に訴えた。ドミニクス教団は一致してエックハルトを支持し、こうしてフランチェスコ教団とドミニクス教団の対決となった。エックハルトは法皇の前で対決しようと提案したが、翌年、その実現前に死亡した。
 彼の死後、フ教団は法皇に彼の有罪を宣告させて、彼の著作を徹底的に破棄させた。その保存者は死刑とするほどの弾圧を加えられた。六百年後、カトリック教会の禁がとかれて、学聖として祝福されたが、彼の著作の収集は困難であった。最近、収集の努力がなされ、全集が刊行された。日本語訳は講談社の相原信作氏訳本「神の慰めの書」(講談社、1985年)がある。その解説によれば、日本でのエックハルト研究書は西田幾多郎と田辺元くらいであった。
 その後、上田閑照氏の研究がある。
   
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