禅と日本文化

千利休の茶道と禅

 千利休は、大徳寺の古渓宗陳に参禅して、悟道の印可を受けた。それ以外は語る必要もないほど著名な茶道大成者である。その精神を見よう。


真の茶道は草庵小座敷
茶道と禅はひとつ
利休は悟道の人

真の茶道は草庵小座敷

 現代、茶道が盛んですが、様々な人々から現代の茶道は、千利休の精神を忘れて形だけになっていると批判されています(下記)。どういうことだろうか。利休の言葉に戻って検討してみる。利休の言葉は『南方録』と『『山上宗二記』に伝えられている。

まず、茶の湯について二つあると言っている。

二つの茶の湯
 ●書院台子の茶の湯
  広い書院で台子(だいす)を用いる。名物の茶器を用いる。大勢が参加する。
  台子は茶道具を飾る棚
 ●草庵小座敷の茶
  露地の中に独立した狭い草庵で、台子を用いない。小人数で行う。

茶の湯の根本は草の小座敷の茶
○千利休は『南方録』で、心に至るのは、草庵の茶であると繰り返し言っている。
 「茶湯は台子を根本とすることなれども、心に至る所は、草の小座敷にしくことなし。」(『南方録、覚書』)
 「申ても申ても小座敷ならでは茶の湯の本心は至り難き事に候。朝夕御工夫肝要に候事。」(『南方録、台子』)
 「かへすがへす茶の湯の深味は草庵にあり。」(『南方録、墨引』)
 「休、常にのたまふ。二畳向炉、これ草庵第一のすまゐなるべし。」(『南方録、滅後』)

 このように利休は繰り返し、草庵、小座敷の茶の湯しか、本心に至りえないと述べている。なぜだろうか。書院台子の茶の湯は、禅寺の法事のごとく、草庵小座敷は、坐禅と独参のごとしです。仏道を志す者が、法事ばかりやって、坐禅も師匠との問答もしなかったら、仏道を得らないのと似ているだろう。法事の最中に師匠は弟子に仏法指導はできない。
 茶道が[人間とは何か][道とは何か][自己とは何か][心とは何か]を究めるものであるならば、茶の師匠と弟子がその根本に立ち向かう草庵での会にこそあるのは当然である。たとえ作法を覚えた人でも、朝夕工夫をすると「心に至る」はずである。

世俗と出離
○書院の茶は世間、草庵の茶は出世間

 「真の書院台子は各式法儀の厳重をととのえ、世間法なり。草の小座敷、露地の一風は、本式のかねをもととするといへども、ついにかねをはなれ、わざを忘れ、心味の無味に帰する出世間法なり。」(『南方録、墨引』)
 「小座敷の茶の湯は、第一、仏法をもって修行得道する事なり。」(『南方録、覚書』)

 書院台子の茶は世俗の行事作法であり、草庵の茶は仏道であり、自己を悟るのが目的である。得道とは禅の言葉で、悟りを得る、世間の自我を離れること。悟りの時、自我を忘れること、無になること、こういう禅体験がここに記述されている。だから利休の茶の目標は茶の湯をとおして悟りを得ることである。趣味や芸術や友達つきあいを楽しむだけのものではない。
 作法規矩からはいって、そこを離れた境地まで至ると、茶の湯が遊びや趣味や小遣いかせぎでなく、[道]となる、という。

茶の湯は仏法

茶道と禅はひとつ

 以上でわかるように、露地草庵の茶の湯こそ本命であり、仏道である。茶は仏道であることをズバリ言っている言葉を見よう。
○「茶の湯は禅宗より出でたるによりて、僧の行ひを専らにするなり。珠光、紹鴎、みな禅宗なり。」
 「此の中すべて茶の湯風体は禅なり。」
 「数奇者の覚悟、全く禅をもってすべきなり。」(以上『山上宗二記』)
 茶の湯は僧侶と同じことをする。すなわち、自己の究明である。禅である、という。

特に小座敷の茶の湯は仏道そのもの
 「小座敷の茶の湯は、第一、仏法をもって修行得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を薬とするは俗世の事なり。家は漏らぬほど、食事は飢えぬ程にて足る事なり。是れ仏の教え、茶の本意なり。水を運び薪をとり、湯を沸かし茶をたてて、仏に供え、人にも施し我も飲み、花をたて香をたき、皆々仏祖の行ひのあとを学ぶなり。」(『南方録、覚書』)
 「わびの本意は、清浄無垢の仏世界を表して、この露地草庵に至りては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等あながちにいふべからず。火をおこし、湯をわかし、茶を喫するまでのことなり。他事あるべからず。これすなわち仏心の露出する所なり。」(『滅後』)

 「清浄無垢の仏世界」とは、禅でいう「無」である。般若心経の「不垢不浄」である。茶の湯の目的の第一は、仏道の修行であり、得道であると明言している。悟りを得るためである。

利休は悟道の人

 「休居士の茶味、なかなか古来茶人の見解にあらず、禅法の真味と他事あることなし。」(『南方録、秘伝』)
 「かように、道に心ざしふかく、さまざまの上にて得道ありし事、愚僧(南坊)等が及ぶべきにあらず。まことに尊ぶべく、ありがたき道人、茶の道かと思えば則ち、祖師仏の悟道なり。」(『南方録、覚書』)
 禅でも悟道者[仏という]でなければ、禅を理解できない。それを法華経や道元禅師は、[唯仏与仏](ゆいぶつよぶつ)という。
 悟道の利休の茶の精神(形や作法や美学でなく)は悟道の人でなければ真に理解できないのかもしれない。茶を行う主体は禅的真人である、ということである。もし、茶人が禅を実践すれば独創的な茶道、現代に本当に生きる新しい茶道ができると思われる。それを千利休、千宗旦、柳宗悦、久松真一などが強く説いたはずである。

○自由自在、自他の差別なし
 「宗易居士は、理に通じ、わざにかなひ、大悟の茶人なり。さる故に、四季折々昼夜ともに、自由自在なりしなり。その本を明らめ、その末をわきまへ、ひたすら茶の正道、世につたえんことを根本にふかく志したまへば、我があやまりをもかくす心なく、人にもわざわざと語聞かせ、我にまされるよきことあれば、いかなる初心の人の所作をも感嘆して、自他の差別なく、道において只深切なりければ、交る人いずれむつまじからぬはなかりしなり。」(『南方録、滅後』)
 自由自在、我がなく、自分の誤りをかくすことなく、他人のよいところを認める、というのは[無我]つまり我のないことのあらわれで、禅の悟りを得たことが明白。自他の差別なく、心にかけるのはただ[道]のことであった。茶人は、これを手本として一歩でも近づきたいと願い、努力をする人であろう。

真の茶道は出離の人のもの
 「茶一道、もとより得道の所、濁りなく出離の人にあらずしてはなしがたかるべし。未熟の人の野がけふすべ茶の湯は、まねをするまでのことなり。手わざ諸具ともに定法なし。定法なきがゆへに、定法、大法あり。その子細はただただ一心得道の取りおこない、形の外のわざなるゆへ、なまじゐの茶人構えて構えて無用なり。天然と取行ふべき時を知るべし。」(『南方録、覚書』)
 真の茶道は出離の人でなければできないから、特に野がけは得道の人以外はしないほうがよい、という。出離、得道の人とはどういう人をいうか、よくよく検討すべきであろう。

 
 
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