禅と文学

宮沢賢治

『オツベルと象』

『オツベルと象』

  • 言葉[時には行動の]の背後にある人の「こころ」を読むのは大変難しい。  「こころ」を教えるのが仏教である。
     この童話には、サンタマリア、沙羅樹がでてくる。《宗教問題》が主題である。
     オツベルは十六人の農民を使って稲こぎをやっている富裕農民である。 そこへ森から白象がでてきて、面白そうに見ている。
     ずるいオツベルはだまして鎖と重い分銅をつけ、うまく自分の財産にすると、こき使い始める。
     始めは嬉しそうに働くが、やがて疲れて、死にそうになる。月の助けで山の仲間へ助けを求める手紙を書く。
     手紙を読んだ象はちは集団でオツベルのところへ助けにきて、オツベルは押しつぶされてしまった。
     助けだされた白象は、さびしく笑ってみんなに礼をいう。

    象は最初なぜすすんで働いたか

     象は最初なぜすすんで働いたか。主人の魂胆を見抜けず善意にとるからである。賢治は若いころ、田中智学の書物を読んで、国柱会のために労働奉仕をした経験があるが、後に醒めている。注意深い者には、書かれたものの崇高さと比較して、現実の宗教者の人格や行動には大きな違いがあることに気がつくものである。
     『注文の多い料理店』は、話者と聞く者のこころの食い違いを浮き彫りにしている。

    白象は力があるのになぜ無抵抗か

     現代日本への影響を考えても、田中智学より賢治の方が力があるのだが、当時、賢治は田中のいいなりになっていた。
     信じる人のためには、かえって力のある者も喜んで従う。白象はオツベルを信じていたから、暴力をふるわず、 喜んで働いた。
     人間は、信じる喜び、働く喜びを感じる。それを己の欲のために利用する者がある。女性が宗教から搾取されているケースも多い。

    キリスト教

     「サンタマリア」というのがでてくることについて、賢治がキリスト教に好意を持っていたという解釈をする人がある。内村鑑三門の斎藤宗次郎と宮沢家と親交、盛岡高農時代におけるキリスト教への出入り、妹トシ子の病床に慰問におとずれたこと、などが根拠とされる。
     私は、その説には同調しない。『銀河鉄道の夜』でもジョバンニに「キリスト教の神様はほんとうの神様じゃない」と言わせた賢治である。キリスト教に好意は持っていたが、全面的に賛成していたのではない。
     つらくなった白象が、次のようにいう場面がある。
     「もう、さようなら、サンタマリア。」とこう言った。
     これは、死ぬという意味ではない。キリスト教よ、さようなら、という決別であると解釈する。
     この世の現実問題はキリスト教では解決しない、と賢治は思っている。
     童話の筋はこの後、仏教(沙羅樹の象)による救いの場面になる。  キリスト教でさえ、教団のために、貧しいものから金の献金と労働奉仕(白象を働かせたように)をさせていて、トップは裕福な暮らしをしていると賢治は思っていたのだろう。それは仏教(出家、在家の教団とも)も同様であるが。

    白象は仏教徒の象徴、白は善を象徴、賢治は仏教に期待

    農民たち

     普段は経済的隷属のゆえ主人に服従し、象のようなあわれな者を救おうとしない。主人が危機に陥った時、自分の身を案じて巻き添えになるまいと傍観する。これが人数では多くて多数決で社会を動かすことになる「真っ黒い巨きなもの」である。賢治のような誠実な風は、まっくろい巨大なものを動かすことは容易ではない。
     この巨きなものは、地位、金、権力、名誉になびきやすいからである。

    白象はさびしく笑う

     救われた象がさびしく笑うのは、「オツベルの冷酷さを改心させられなかったことへの悲しみであろう。」という説がある。(続橋達雄氏、小学館、群像日本の作家『宮沢賢治』239頁)

     私は、賢治の悲しさだろうと思う。現実には、真っ黒い巨きなものは、こわれない。
     この話のようなハッピーエンドは現実には来ない。
     白象は一匹ではどうにもできなかったが、象が大勢で、オツベルのような者を倒すことができたのだが、現実には、象は極めて少ないのだ。また、仏教者は、この童話のような(象の集団がオツベルを襲った)暴力には訴えない。このような解決法はない。だから悲しいのだ。

    最後の一行は何か

     次の文章が最後におかれている。
      「おや、[一字不明]、川へはいっちゃいけないったら。」
     新潮社の文庫の注では、こうなっている。
    「初出誌では一字分の黒四角■のまま(本によっては・印)になっている。旧全集などでは推定して「君」という字を当てていたが、この推定に特に根拠はない。」
     岡屋昭雄氏は、学校教育で宮沢賢治の童話をどう教えるかを『宮沢賢治論』(桜楓社)で論じておられる。
     「中学校一年生の、殆んどといってよいほどの生徒が、最後の次の二行がわからないと最終的な感想で述 べている。その最後の二行というのは、次のことばである。

      白象はさびしくわらってそう言った。
      おや、君、川へ入っちゃいけないったら。

    「中学校の生徒たちにとっては、白象のさびしさのよって立つ所が見えないのである。しかも、白象が、そのさびしさのために死のうとしていることにつき当たっていないのである。」  (17頁)

     続橋達雄氏は、サブタイトルの『牛飼い』に対応する(小学館、『宮沢賢治』233頁)とみる。
     「ちょうど、伝承の昔話が<どんとはらい>などとおわるのと同じ筆法である。この結びに至るまで、森と野原と田畑?が舞台だったのに突然川が出てくる、という変化の妙もある。」(233頁)
     最後の賢治の文は「君」と推定しなくてよいと思う。
     牛を見て、「おや」と思い、間をおいて見ている。そして川に入ろうとするのがわかって、止めているのだろう。「おや、・、かわへーー」でよい。
     白象が自殺しようとしている、とは取りたくない。法華経者や禅者は自殺はしない。象すなわち賢治の宗教から理解したい。賢治は、自己犠牲の主人公をよく描いているが、他者を救うための自己犠牲か、苦しんだあげく救いを求めて突き進んで死んでいく(『よだかの星』)。悲しさから自殺することはない。 そのようなことで生命をたつようなことを肯定する仏教ではないので、賢治も自殺は肯定しないと思う。
       
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