禅と文学

宮沢賢治

『ひかりの素足』

『ひかりの素足』

 この童話は、悟りの世界を描くので、難しいだろう。
 「向うの山の雪は青ぞらにくっきりと浮きあがり見ていますと何だかこころが遠くの方へ行くようでした。」
 この表現は詩にもあり、精神病を疑う医者がいる。とんでもない解釈である。自他一如の詩的表現が理解されない。中原中也にも、似たような詩の表現がある。
 「とうげのいただきはまったくさっき考えたのとはちがっていたのです。」
 道を知らない者に導かれるととんでもない間違ったところへ行く。
 「「あすこの明るいところまで行って見よう。きっとうちがあるから、お前あるけるかい。」
 一郎が云いました。
 「うん。おっかさんがそこに居るだろうか。」
 「居るとも。きっと居る。行こう。」 ・・・・(中略)

 それでもいつか一郎ははじめにめざしたうすあかるい処に来ては居ました。けれどもそこは決していい処ではありませんでした。かえって一郎はからだ中凍ったように立ちすくんでしまいました。」
 このところは『銀河鉄道の夜』のカンパネルラが降りていったところである。本当のものは、目に見えるような、光るような、特定のものではない。
 かばいながら一郎はどこからか
 「「にょらいじゅりょうぼん第十六。」というような語(ことば)がかすかな嵐のように又匂のように一郎に感じました。」
 この童話は、法華経の精神をこめたものである。如来寿量品は、法華経の第十六章である。
 医者が巧妙な方法で苦しむ子供を救う喩え話がある。無量の過去から無量の未来までその寿命は尽きることがないのだと説く。それが私たちすべての人の本性である。
 「そしてだんだん眼がなれて来たときその闇の中のいきものは刀の刃のように鋭い髪の毛でからだを覆われていること一寸でも動けばすぐからだを切ることがわかりました。」・・・・

 その人はしずかにみんなを見まわしました。
 「みんなひどく傷を受けている。それはおまえたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない。」その人は大きなまっ白な手で楢夫の顔をなでました。」
 仏性、すべての人の本性、は、傷つかない。不生不滅、不増不減、不垢不浄・・・。しかし、ちょっとでも我(が)を出すと、仏性本来の働きが隠れる。 他人を憎んだり、自分の境遇をのろったり、みな、それで自分の仏性の働きを押さえ込むため、どんどん自分で自分を苦しませる。そのようになっても、やはり、仏性は傷つかない。仏性は絶対に、傷つかない。そのたびに、働きがちょっと隠れる、働きが鈍るだけ。
 そのような、自己の本性に目覚めていたのだろうか、賢治は。
 「その人は一郎に云いました。
 「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなおないい子供だ。よくあの刺(とげ)の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはここから沢山の人たちが行っている。よく探してほんとうの道を習え。」」
 悟りの世界を見た禅学者、鈴木大拙は、「極楽世界は行きっきりにするところではない。見たら帰ってきて、人々を救わなければいけない。」という意味の発言をしている。
 素直、誠実、人を裏切らない。人を傷つけない。悟りを得るというのは、我、苦のない世界、極楽世界(それは、すべての人の根底。自覚されていないが)を見ることだ。そこを見た人は再び、元の世界に帰って、人々を同様に極楽世界に渡す為にはたらかなくてはならない。なぜなら、みな人々が、すべて極楽世界のまっただ中に居ることを知らず、苦しみ、心の病気となり、自殺し、いかがわしい宗教に迷わされていることを知ったからである。
 そのような極楽世界を見た人が、日本には数多く出た、そして元の世界に帰って行った。道元禅師、白隠禅師、盤珪禅師、良寛、世阿弥、芭蕉、らいてふ、・・・。
 そういう人を探して、その人が示す道、仏道を習う人がいる。それを賢治は言っている。
   
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