禅と文学
宮沢賢治
賢治の宗教批判(2)
宮沢賢治の宗教批判に関する言葉を拾ってみます。賢治が好きな方は、この宗教批判をどう解釈されるでしょうか。
今の宗教は形ばかりで中身がない
父と関西を旅行した時、比叡山を和歌に詠んだが(25歳、1921年)、幡や講堂や像はあるが、精神の行われていないことを嘆いている。
- ねがはくは妙法如来正編知 大師のみ旨成らしめたまへ
- いつくしき五色の幡(ばん)はかけたれどみこころいかにとざしたまはん
- いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき
- あらたなるみ像かしこくかゝれども、その慕はしきみ像はあれど(1)
(注)
宗祖の借り物で信者を収奪
仏教の僧侶も研究者も他人の借り物ばかり。
- 『どんぐりと山猫』
わが教祖はこういっている、というのが僧侶の説法。自分のものがない。こういう宗教者を批判した童話。
- 僧侶はうそをいう
「僧ひとり縁にうちゐて/−−/ゆびさしてそらごとを云ふ」(『中尊寺』全集4、312)
- 次の童話は、弱い者からの収奪機構となっている宗教を批判した童話である。
- 『フランドン農学校の豚』
- 『注文の多い料理店』
- 『くもとなめくじと狸』
- 『貝の火』
名誉を嫌う賢治
新興教団では宗教の教祖や幹部は自分を偉いものとほこる傾向が強い。それを批判する。
真の宗教者には謙虚さがある、というのが逆に、現実の多くの宗教者への批判である。
「美しさをほこることをしません」
「ある花は美しいといふひとことが、何か自分にくつついて、いつまでも離れないもののやうに考へました。ある花は美しいといふことがすなわち自分なのだと思ったりしました。これらの花は、もうその時から、美しさの小さな泉をからしてゐたのです。」(童話『ひのきとひなげし』)
ある女性が、賢治の名声を利用したのか? 賢治はひどく怒ったことがある(1)。
(注)
- (1)ちくま文庫版「宮沢賢治全集」3、468頁、全集4、237頁
宗教遍歴からやがて宗教批判へ
賢治も最初は、美しい言葉を言う宗教者を信奉していた。しかし、近づいてみて、その人格や実際にやっていることをみて、激しい批判に転じていった。童話や詩で、宗教者の批判と本当の宗教とは何かを訴えた。
- 父は熱心な真宗信者。父と共に、花巻仏教会のもよおす説法会に出席する。父は巨匠暁烏敏(あけがらすはや)とも親交があった。(1)
- 16歳の時、父への手紙に、道を得たと公言。後には、宗教者の慢心を批判する賢治にも、若気の慢心もみせる賢治であった。
「小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候。」(2)
- 盛岡、報恩寺、尾崎文英に参禅。(3)
- 在家法華経教団『国柱会』へ入会、そして、失望、軽蔑へ
賢治が『国柱会』に入会していて、遺言で「法華経千部を印刷して知人に配布してくれ」ということ、などをもって賢治を法華経信者とするのであるが、賢治の宗教はそう単純ではない。
- 熱狂的な時期
- 大正7年2月、父に法華経信仰を打ち明ける(4)
- 法華経の内容を知らず、受難をたえることが自己目的(5)
- 立派な家に住まない、結婚しない。(6)
- 信仰にのめりこみ、学業に身が入らない。(7)
- 日蓮は法然の浄土宗を批判(8)
- この後、国柱会に入会。
(注)
- (1)『日本文学と仏教・第十巻』岩波書店、114頁。
- (2)同上、115頁。
- (3)同上、116頁。
- (4)吉本隆明「宮沢賢治」ちくま学芸文庫、26頁。
- (5)同上、34頁。
- (6)同上、39頁。
- (7)同上、40、41頁。
- (8)同上、28、32頁。
在家仏教「国柱会」批判
最初は、国柱会の熱烈な信者になるが、やがて失望し、逆に激しい批判に変わる。
『国柱会』という詩は、上京してたが、国柱会の現実を知るにおよんで、失望した賢治がうかがわれる。田中智学が国柱会の創始者、高千尾智応は理事だった。
次の詩は、1921年当時の状況を追想して書いた詩である。建物ばかりで、精神の冷え冷えさを感じる。
「灰色のこの館には/百の人けはひだになし」
「この館はひえびえとして」
「大居士は眼をいたみ
はや三月人の見るなく
智応氏はのどをいたづき
巾巻きて廊に按ぜり」(1)
(注)
東京の人は冷たい
本当の宗教を求めて上京したが、東京の人は冷たかったという。誰のことか。
「南方に汽車いたるにつれて
何ぞ泣くごとき瞳の数の多きや
そは辛酸の甚しきといふのみにはあらず
北方に自然のなほ慰むるものあり
南方にたゞ人の冷きあるのみ」(1)
「東京ノート」に「その結末がひどいのです」と(2)あり、『注文の多い料理店』でも都会人への反発がある(3)。東京での生活で人をすっかり信頼できなくなっている。
(注)
- (1)全集3、492頁。
- (2)『宮沢賢治ハンドブック』新書館、131頁。
- (3)同上、131頁。
東京は砂漠
賢治は地名をエスペラント風に置き換える。岩手は「イーハトーブ」、盛岡は「モーリオ」。
賢治が名づけた地名で、「テパーンタール砂漠」は「トーキョウメトロポリタン」からの発想で、「東京は砂漠」というのだろう。暖かい血の通わない、冷たい砂ばかりの東京砂漠。その北東にあるのが岩手、夢のある国。
「イーハトーヴは一つの地名である/・・・
テパーンタール砂漠の遥かな北東/・・・
ドリームランドとしての岩手県である。」
(注)
腐った馬鈴薯という宗教者
次の詩は、以前仰いでいた師を今は、腐って、おぞましいとあざわらう、という。この詩は文語詩の百篇の中にあり、最も晩年のもの。これほど尊仰の対象から、さげすみに変わった宗教者は誰か。異稿(1)に仰いでいたのは「まちをいでしとき」とあるので、国柱会幹部であろう。
「こころの師とはならんとも、
こころを師とはなさざれと、
いましめ古りしさながらに、
たよりなきこそこゝろなれ。
はじめは潜む蒼穹に、
あはれ鵞王の影共ぞと、
面さへ映えて仰ぎしを、
いまは酸えしておぞましき、
澱粉堆とあざわらひ、
いただきすべる雪雲を、
腐(くだ)せし馬鈴薯とさげすみぬ。」(2)
にせものの大乗在家仏教者を焼き殺せ、という過激な軽蔑の対象になっているのは、誰か。
「にせものの大乗居士どもをみんな灼け」(3)
(注)
- (1)全集4、364頁。
- (2)全集4、『心相』86頁。
- (3)全集1、198頁。
尊敬から、失望・軽蔑へ
賢治の宗教は晩年に変わった。上田哲氏は、賢治が最後まで「国柱会」の会員で、幹部と文通があったことを証明された(1)が、だが、それは、表面、形式だけだろう。
教団と文通があったことと、賢治の宗教の内面と混同してはいけないだろう。会報を購読し、幹部と文通をするということは、妹の墓が国柱会にあったので交流だけは続けたのだろう。さらに、教団の動向を見守っていく意味や、いつか賢治のいうのが本当の法華経だからその精神で活躍してほしいと言ってきてほしいと期待して文通を続けたと思われる。それはむなしい期待だった。国柱会は「それ本化の妙宗は、宗門のための宗門にあらずして、天下国家のための宗門なり、すなわち日本国家のまさに護持すべき宗旨にして−−」というごとく、国家と密接な関係を結ぼうとし、都市下層民や下層農民を切り捨てた国粋主義的なものだった。当初は誰も気がつかないが、賢治はやがてそれに気がつき失望した。
社会運動、経済救済活動に従事していても、それだけ見れば、貴くみえるが、近くに寄ってみると、やりてではあるが、奢り、私欲、名声にも執着する人間であることも多いのだ。それなら賢治は許せない。見限る。
上田氏は、「賢治がその宗教遍歴の末に到達したのが、田中智学の国柱会である」とし「田中への絶対服従」の言葉を紹介して、最後まで国柱会から脱退していないことをあげて賢治の国柱会の影響を大きいような印象を与えようとされている(2)。しかし、それは、上記の詩や言葉から見れば、誤解であろう。賢治が熱狂的だったのはごく初期の短い期間にすぎない。賢治は国柱会とは違った独自の法華経精神に目覚めた。それは現在の法華経系在家教団とも違う。教団の勢力拡張や政権獲得、金を集めるような行動などとは全く縁のないものだった。自然を自己とし、生活と芸術と科学と求道がひとつであるものだった。
「静かに自らの心をみつめませう。この中には下阿鼻より上有頂天に至る一切の諸象を含み現在の世界とても又之に外ありません。」(3)
『銀河鉄道の夜』でも見るとおり、法華経信仰といっても深浅が様々であって、表面は法華経といいながらまるで別物もある。内面の心と表面の言葉の乖離は著しい。宗教の評価は単純に考えてはならない。
吉本隆明も、賢治は日蓮からも田中からも離れたという(4)。
(注)
- (1)『宮沢賢治ハンドブック』新書館、116頁。
- (2)河出書房新社『図説宮沢賢治』
- (3)1918年、保阪あて書簡、全集9、74頁。
- (4)吉本隆明「宮沢賢治」ちくま学芸文庫、21、68頁。
まっくらなおおきなもの
賢治は「まっくらなおおきなもの」を何とかしたい、と思う。だが、賢治が自分一人ではどうしてもだめだと思う。
「巨きな雲がじつに旺んに奔騰(ほんとう)するといふ景況である」(1)
「あんなのをいくら集めたところで/あらたな文化ができはしない」(2)
「そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/
結局おれではだめなのかなあ」(3)
「何をやつても間に合はない
世界ぜんたいまに合はない」(4)
(注)
- (1)全集2、417頁。
- (2)全集2、426頁。
- (3)全集2、610頁。
- (4)『雨中謝辞』
まっくろいおおきなものの片棒をかつぐ大衆
賢治はアンデルセンの『絵のない絵本』を読んだ。第十三夜の話の中に、こんな詩がある。
「つまらぬものをば天まで崇め、
ちりの中へと天才おとす、
これはまことに古臭いはなし、
それに変わらず繰り返される」(1)
学者や評論家の名において、本当の天才が葬られ、くだらぬ者が崇められてきた。この黒い構図は、いつになっても変わらない人間の闇の部分である。真っ黒いおおきなもの。くろいものは、一人ではない。支持する大勢がいる。おおきくなる。賢治の作品はよく読まれている。しかし、まっくろいおおきなものはなくならない。
(注)
童話集『注文の多い料理店』の宣伝チラシ
賢治は童話や詩を書いた。偏見のある人は、その童話にこめられた真意を理解できず、不可解に思うだけであろう。くろいものは、無視するだけで、くろいものはそのまま成長する。
「これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこの通りその時心象の中に現れたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部において万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解なだけである。」
宗教の変換を企画したが誰もみてくれなかった
「私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考えを主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらいたいと、愚かにも考えたのです。あの篇々がいいも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。「春と修養」をありがとうといふ葉書も来ています。」(1)
『札幌市』という詩は、悲しさを童話や詩にしたが見てくれなかったという意味の詩である。(2)
(注)
- (1)29歳、1925/2/09 森佐一あて書簡、全集9巻、281。
- (2)『札幌市』全集2、561頁。
賢治の文学は仏教精神
賢治の文学には仏教精神がある。臨終間際に母へ語った言葉がある。
「ありがたい仏の教えを一生懸命に書いたものだから、いつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになる」(1)
「あの童話は、仏様やお経を文字の上には書いてないけれども、ほんとうのことを書いたものだから、いつかはきつと、ひとのためになるんだんじゃ。」(2)
賢治の祈りは通じただろうか。賢治が今生きていたら、世の中は、よくなっているというだろうか。絶筆の和歌二首は、仏法のために命を捨てるのならば嬉しいという。
「方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし」(3) (みのりは御法、仏法)
その外の和歌にも多数、仏法、仏教を讃える歌がある。
「いくたびか朽つべかりしをこよひまた 千代のためしにあはんたのしさ 」(4)
「あはれ赤きたうもろこしの毛をとりて かたみに風に吹きけるものを」(5)
「塵点の劫をし過ぎていましこの妙のみ法にあひまつりしを」(6)
(注)
- (1)全集2巻、690頁。
- (2)『宮沢賢治必携』171頁。
- (3)全集3、285頁。
- (4)全集3、282頁。
- (5)全集3、282頁。
- (6)全集3、280頁。
同じ道を行く者少なし
賢治の法華経精神に共鳴して同じ道を行く人は少ない。国柱会にも失望して、同志ではない。
「利による友、快楽を同じくする友 尽(ことごと)く之(これ)を遠離せよ」(1)
我利を追わない同志を求め、法華経の世界観を説き、友人に信仰をすすめる。
この頃は、観念による理解であるが、真剣である。真剣に友人を誘う。
「やがて私共が一切の現象を自己の中に包蔵する事ができる様になったらその時こそは高く叫び起き上がり、誤れる哲学やご都合次第の道徳を何の苦もなく破って行こうではありませんか。」(2)
「誠に私共は逃れて静に自己内界の摩訶不思議な作用、又同じく内界の月や林や星や水やを楽しむ事ができたらこんな好い事はありません。これはけれども唯今は行ふべき道ではありません。今は摂受を行ずるときではなく折伏を行ずるときだそうです。けれども慈悲心のない折伏は単に功利心に過ぎません。功利よきさまはどこまで私をも私の愛する保阪君をもふみにじりふみにじり追ひかけて来るのか。私は功利の形を明瞭にやがて見る。功利は魔です。」(3)
「・・・われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である。・・・
われらの前途は輝きながら険峻である
険峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である」(4)
知人に必死で呼びかけるが、話を聞いても共鳴しない人ばかり。ついにあきらめた。
「今のあなたには、私の言うことは、あはれな話に聞くでしょう
「けれども墜ちるひとのことや
又溺れながらその苦い鹹水を
一心にのみほさうとするひとたちの
はなしを聞いても今のあなたには
ただある愚かな人たちのあはれなはなし
或は少しめずらしいことにだけ聞くでせう。」」(5)
賢治のように、一途に道を求める「きままな」人が少ないのは当然とあきらめる。
「いまこそおれはさびしくない
たったひとりで生きて行く
こんなきままなたましひと
たれがいつしょに行けよう」(6)
つひに、賢治には、賢治に共感してくれる友は一人もいなくなった。
「くらかけ山の雪/友一人なく/たゞわがほのかにうちのぞみ」(8)
「遠くでさぎが鳴いてゐる
夜どおし赤い目を燃して
つめたい沼に立ち通すのか・・・・」(9)
賢治に近寄ってきても、いっぺんやる気をおこしたって、5年もすればやめてしまう。ずっと賢治の祈りを共感しつづける人はいなかった。さめやすい人ばかり。
「一万人のなかにならおそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ 」(7)
あなたは、1万人の中の5人に入りますか。5年たっても、やめていませんか。
(注)
- (1)全集10巻、49頁。35歳、1931 『雨にもまけず手帳』
- (2)全集9巻78頁。1918/3/20前後 保阪嘉内あて書簡。
- (3)全集9巻、76頁。1918/3/14前後 保阪嘉内あて書簡。
- (4)全集10巻、25頁。30歳、1926年、『農民芸術概論綱要』
- (5)『業のはなびら』
- (6)全集1、86頁。『小岩井農場』
- (7)全集1、539頁。『告別』、1925/10/25
- (8)全集3、471頁。詩『くらかけ山の雪』
- (9)『業の花びら』
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