もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌-松尾芭蕉        
『野ざらし紀行』の旅と禅


『野ざらし紀行』の旅と禅

 仏頂に参禅して修行していた芭蕉が、この旅の途中で悟りを得て、新しい俳諧を開拓した旅である。芭蕉は、三十七歳ころから、参禅を開始していた。貞享元年(四十一歳)の八月から翌年四月まで旅に出た。門人千里(ちり)が道連れである。二人は、江戸から伊賀(故郷)へ帰り、その後、大和、美濃、尾張、伊賀、奈良、京都、尾張、木曽を通り、江戸に戻った。
 『野ざらし紀行』に収められた俳句のうち、禅にかかわりのありそうなものを見ていく。

この旅で悟る覚悟

 芭蕉の『野ざらし紀行』の冒頭にこの句が置かれている。この句は、無常の身だからいつ旅の途中で死ぬかもしれないという気持ちを詠んだものといわれている。しかし、若い芭蕉が、たかが東海道を旅するのに死を覚悟したとは思えない。おおげさすぎる。これは、禅者、芭蕉の仏道と俳諧をひとつとする新しい芸術への開眼の志の表明だったのである。今度の旅で、今までの自分に死んで(これが「野ざらしを」であり、新しい自己に生き返って新しい俳諧を創始したい、そう決心すると(これが「心に」の意味)、身がひきしまる思い(「風のしむ身かな」)であった。
 悟りに入ったという人の杖に導かれて、というごとく、最初から「無何」に入ることが暗示されている。もちろん、この旅が終わった後に、書いたものだが、読者に、禅のことが秘められていることを暗示したのであろう。

馬上で悟る

 小夜の中山を馬に乗って越えていく。  中国の詩人の漢詩をふまえている。一休が杜牧に共感。通釈は、馬上で眠っていて、馬から落ちようとして驚いた、という解釈である。もちろん、俳句としてはそれでよいだろう。
 しかし、別なよみかたをしてみたい。芭蕉はこの旅の途中で悟ったと思われる。禅僧は、自己の悟りを偈頌にする。詩人は、自己の悟りを詩で表現する。この句が、芭蕉の悟りの時の句であると思う。「古池や」は、さらに後得智が深まって大悟の境地を句にしたものだろう。大垣の句、「旅寝」とも考えて、「寝る」を「自己を忘じた」ことにかけていると思う。茶は禅道場で用いられる覚醒飲料である。茶の煙りで我にかえった。芭蕉は、参禅していた。馬上でゆられながら功夫して三昧になったのであろう。この後に、以下に紹介するように、禅的な境地を秘めた句が多く出てくるので、芭蕉は、この旅の前半で、悟ったと思われる。悟ったことをよんだはずの句をさがしたが、この句のようである。

死ぬということ

 芭蕉は、一度、伊賀に帰った。そして、大和へ行く。  伊賀には、四、五日いて吉野へ。途中、当麻寺の古い松を見た。「大いさ牛をかくすともいふべけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたつとし」と芭蕉の説明がある。「牛」は「十牛図」で、人が気がついていない仏性、悟りを象徴する。寺の僧、朝顔などどれほどの死を見たであろうか、この松は。今、ここに、不死の法がある。  後醍醐帝陵をたずねて。これを見て人々は、何を忍ぶだろう。あなたなら?
 喝! 妄想するな。芭蕉に試された。草には妄想の意味がある。

 大和をたって美濃、尾張へ向かう。大垣で次の句がある。  「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、」という詞がついている。「死にもせぬ」とは、死なない、「不死」である。不死は「不生」である。無我を悟ったからである。大死する、自我が死ぬ、とはこんなことだったのか、旅で馬上で死んだ結果、新しい自分に生き返った。「家をあるじ」主(自分)と物が一体となれば、主客もないことを、転倒した言葉で表現する。この前に悟った証拠であろう。

 尾張の海を見ての句。  宮本三郎氏は、こう説明している。  白いのは声ではない、という宮本氏の解釈に、私も同調する。白いのは声だと解釈するのは、いかにも分別的である。ただ、クッー、クッー(鴨の声)。ただ、白い(海)。−−−となると無分別となる。この句は、貞享元年十二月、熱田にて作られたが、翌年三月の次の句について、芭蕉自身が「分別なし」と言っていることを考慮すれば、芭蕉はこの頃、無分別になりきったと思われる。この句は、自分もなく、海もなく、声になりきり、白いになりきった、そこを示したものである。「海くれて」は分別的、状況説明の語にすぎない。芭蕉はただ、眼前のものに無分別になりきっている。それを分別的に見える言葉で示しているのである。芭蕉の言葉に「常風雅にゐるものは、おもふ心の色、物と成りて句姿定まる。」(『あかそうし』)とある。心が色、物になる。物と我がひとつである。

新しい眼

 暮れには伊賀に帰った。貞享二年正月、半残あて書簡にこうある。  わづか一年半前出された『みなし栗』をけなすほどに、この旅で芭蕉には大きい変化があった。前年名古屋で編集した『冬の日』は、「俳諧といえば言葉の知的な遊び、付合いは言葉と言葉の機械的な結び付け、と考えられて来た長い歴史的な観念を根本的に変革した画期的な特色であった」(1)というようにこの旅の頃芭蕉の俳諧は大きく変わった。

 また、伊賀をたって、奈良、京都を経て尾張へ向かう。その山道で新しい句が生まれた。  この句も同じころ、京都から大津への山越えの道で、「何とはなしになにやらゆかし菫(すみれ)草」と歌ったが、後、尾張で改作したもの。この句の言葉使いも人から批判されたという。宮本氏は次のとおりいう。  この菫は私(芭蕉)が山道を歩いて来たから、私の心に生じたのである。私が来たことで菫が生命を現した。私が菫を作った。わが生命の表現である菫。ゆかしく思うのは当然であった。それは活きた事実であった。形式にとらわれた俳諧ではない。形式にこだわらず人間の真実をよむ。そこが北村湖春には理解できない。

 近江の琵琶湖のほとりで、次の句がよまれた。  この句について、宮本氏は、こう説明する。  この句には大変面白い秘密がある。その秘密の解明の鍵は芭蕉がこの句を書いて送った書簡で芭蕉がさりげなく述べているが、たいていの人は気にとめない。芭蕉は泊めてくれた門人あて「愚句、そこもとニテ之句、辛崎の松は花より朧にてと、御覚えくださるべくそうろう。」と書き送った。この書簡にある、「そこもとニテ」が秘密を解く鍵である。この芭蕉の手紙がさりげなく秘密を教えているわけで、この句が「そこもとニテ」とすれば、この句は「(辛崎の松は花より朧)にて」となる。となると、「そこもと」が、「辛崎の松は花より朧」である。「ニテ」とは、場所を表す。芭蕉のいた場所である。「−−朧」という場所ニテ、である。このニテは古風の形式にとらわれた人々が考えるニテではなかった。言葉を批判された芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」といった。だからこれは概念ではなく、眼前の事実であった。「朧」が芭蕉のいる場所であった。「朧」なる風景は「眺望」であり、遠くなのに、なぜ、「そこもとニテ」、「朧ニテ」となるのか。それを実現させていたのは、芭蕉、その人である。芭蕉は、対岸の風景、「−−朧」を見て、我を忘れて、それと一つになった。だから、対岸の「朧(なる眺望)」は遠くではなく、芭蕉のいる場所にあった。いや芭蕉が、朧そのものになった。芭蕉は自然とひとつになった。そこを「おぼろニテ」といった。このように一見すると手の混んだまるではからいの句と、とられかねない句であるのに、芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」という。分別でなく、「朧」が眼前の事実であったから、そのまま言葉にした。だから、「にて」を「かな」とすることはできなかった。この句について芭蕉は「我はただーーニテでよい」「ただ眼前なる」と言葉少なにいうばかりであった。芭蕉は禅者の自他一如を俳句という形式で現していた。
 次の句も面白い。  「近江水口にて、二十年をへて故人にあふ」とあるのは伊賀からきた土芳だった。二人で桜を見ているのである。桜が生きているのは、近江の地ではなく、二人の命に、である。この句をみると『華厳経』を思う。桜がふたつの命に生きている。二つの命が同じものを共有していながら互いにあらそわない。「因陀羅網」、「事事無礙法界」のようでもあるが、どうであろうか。

 旅の途上で、禅僧、大顛(だいてん)の死を知った。芭蕉の弟子其角が大顛和尚(だいてん)に指導を受けて坐禅をしていた。旅の途上でその死を知って、其角に書簡を送りなぐさめている。その書簡にある句が、『野ざらし紀行』にも収められている。  「この僧予に告げていはく、円覚寺の大顛(だいてん)和尚今年睦月の初、遷化したまふよし。まことや夢の心地せらるるに、先ず道より其角がもとへつかわしける。」とある。今は卯の花がさかりだが、梅のにおいの中でなくなられた和尚が思い出されて涙ながらに卯の花を拝む。

一つ峠を越えたがまだ未熟

 江戸に戻った。禅の修行は一つの峠を越えたが、まだ、なすべきことがあるとの自覚がある。  江戸に帰った芭蕉は『野ざらし紀行』の最後にこの句を詠んでいる。この句は、もちろん衣にたかるシラミのことを詠んでいるが、それだけだと受け止めるのでは、「流行」(差別、相対、表面)だけの軽薄なだけの遊びの句である。この句に「不易」(平等、絶対、真実)をも詠んでいると私は見る。自己の本性を悟ったというものの、まだ、かす(煩悩、迷い、−−)が残っているとの自覚がある。しらみは「白み」「無」にも通じる。悟ったものの、見性したら、しばらくそれに捕らわれる。悟りを得たらそれをも捨てる必要がある。芭蕉は、無我の自己を自覚したが、この頃はまだ、何かふっきれないものが残っていた。句を見る限り、この頃から物我一如とみられるものが多い。しかし芭蕉の内面では、納得できるようになったのは「おくのほそみち」の旅であったと思う。慢心せず、まだ向上の余地があることを自覚するのは、芭蕉の禅の綿密さである。

 芭蕉はこうして、野ざらしの旅で「物我一致」の境涯に達した。そもそも、野ざらしの旅へ思いたったのが、今度の旅で、「死にたい」という希望をもっていた。禅者にとって「死」は、「悟り」を意味する。悟ることを「身心脱落」、大死ともいう。「大死一番、絶後蘇息」という。自我はない、と今までの自分が死んで、新しい自己に息を吹き返す。芭蕉は、この旅で、一度、死んだ。芭蕉が『冬の日』で、自らをこの旅で「わびつくしたるわび人」となったといっているのはそれを裏づけるものだろう。
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