もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌-松尾芭蕉        
芭蕉と禅の心


不易流行

 芭蕉庵の近くに臨川庵という寺があり、そこにいた仏頂和尚(常陸鹿島の根本寺の住職)について、芭蕉は坐禅を始め、悟道の印可を得たという。
 芭蕉は俳諧の理念をよく「不易流行」(ふえきりゅうこう)として説いた。研究者は、次のように解釈されている。
 芭蕉は、おくのほそ道の旅の途中、羽黒山の麓で呂丸に、また山中温泉で北枝に初めて不易流行を語った。
 その年、去来にも語った。

 「此年(元禄二年)の冬、はじめて不易流行の教えを説たまえり。魯町いわく、不易流行の事は古説にや、先師の発明にや。去来いわく、不易・流行は万事に渡るなり。しかれども、俳諧の先達これをいふ人なし。−−−−宗因師一度そのこりかたまるを打破り、新風を天下に流行しはべれども、いまだこの教えなし。しかりしよりこのかた、都鄙(とい)の宗匠達古風を用ず、一旦流々を起せりといへども、又その風を長くおのが物として、時々変ずべき道をしらず。先師はじめて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立、また風は変ある事をしり、流行の句変ある事を分ち教えたまふ。」(『去来抄』)

 「俳諧の本体」と「風は変ある事」という、不変の本体と流行の風あることを説いた。

 「魯町いわく、不易流行その元一なりとはいかに。去来いわく、此事弁じがたし。あらまし人体にたとへていはば、不易は無為の時、流行は坐臥・行住・屈伸・伏仰の形同じからざるが如し。一時一時の変風これなり。その姿は時に替るといへども、無為も有為も、もとは同じ人なり。」(『去来抄』)

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれているが、芭蕉は、それを禅的に解釈しなおしている。「不易」は「無為」の時というが、それは、坐禅ではない。流行は「坐臥」とあって、坐は、流行にあるからである。根源的な絶対、平等、無であろう。「流行」は相対、差別、有である。この二つは、別ではない。同じ人である。
 芭蕉が不易流行の句として、「古池や」の外、次の二句をあげて、「此三句は、いづれも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句なり」と語った。(木導『水の音』の序文)

 以下<  >は、復本一郎氏『芭蕉俳句16のキーワード』の解釈。その後が、私の解釈である。

 芭蕉は、木導の「春風や」の句を「景曲第一の句」と称賛し、こう言った。

 「景気の句世間容易にする、もっての外の事なり。大事の物なり。(中略)
惣別(そうべつ)、景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成がたき故、つよくいましめおきたるなり。」
(許六『宇陀法師』)

<ただ景色を詠んだだけの句を、皆簡単に作ってしまうが、論外のことだ。大体において、景色を詠んだ句は、古い。一句に曲というものがなくては「新しみ」のある句として成り立たないので、昔から注意を促されているのだ>

 これら三句が不易流行の句だとすると、仏教と同様の真実が詠みこまれているわけである。「巌」は、生きていない場所。不生の場所。「小松生」生あるとは思えないところ(不生)に、松やなでしこが生み出される。巌は「自己」、不生の自己。盤珪は特に、その語のみで指導した。原始仏教では、解脱すると「生が尽きた」という自覚になるという。自己から生み出される松、なでしこ。創造的な人間の本質を詠んだ。
「春風や」麦畑の中を行くのは作者、のはずなのに、「水の音」。風、水音とひとつになって畑中を行く。身心、自己を脱落したものがゆく。自我を忘れて、自然とひとつ、自他一如、の境涯を詠んでいるので、自然を詠みながらも、人間の本質を詠んだ不易流行の句だというのであろう。

不易流行の心は禅

 「不易流行]は『荘子』の言葉といわれている。芭蕉は表面的には禅を出さないが、芭蕉は禅の印可を得ているので、『荘子』も、中国の思想そのままではなく、禅的に定義しなおすであろう。禅では、「物我一如」「絶対即相対」「平等即差別」である。個々の物は、差別あるもの、相対のものと思われているが、実は絶対、平等なる本来の自己の姿である。俳諧は、絶対平等なる生命の躍動を、相対的な言葉で現すのだというのが芭蕉の趣旨であろう。すなわち、俳諧は観念やただの風物、静寂を詠んだものではだめだ、眼前の事実、それは人間の真実、それを詠んだものでなければならない、というのが芭蕉の説であると思う。
 以上に関連する類似の言葉をあげる。以下<  >は復本一郎氏の解釈(『俳人名言集』)

格に入りて格を出る

 「格に入りて格を出る」という。

 「格に入りて格を出ざる時は狭く、また格に入ざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出てはじめて自在を得べし。」(『俳諧一葉集』)

<格は基本。基本の段階で止まってもいけない、基本を無視すれば、でたらめ。基本をマスターし、基本を抜けだしてオリジナリティを発揮する。>

 まず、指導者の指導で基本を学び、そして、いつか、その基本をふまえて、そこから超えでていく。仏道も同じである。似た言葉を味わう。

 蕪村に次の言葉がある。

 『俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法、最もかたし。』(蕪村 『春泥句集』)

 俗語を用いて、俗を離れて、深い人間の真相にせまるのは難しいことであろうが、それが俳諧だという。
 道元禅師に次の言葉がある。他(世界、自然、もの)が、自己である。自他一如である。自は、自我ではなく、根源的な自己である。もちろん、この「我」「心」は実体ではなく、認識的、作用的である。

 「我を配列しおきて塵(尽)界とせり。−−我を配列して我これを見るなり。」(『有時』)
「心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。」(『仏性』)

 芭蕉が、元禄三年(四十七歳)に、牧童あてにあてた書簡でこういう。

 「世間ともにふるび候により少々愚案工夫これあり候て心を尽くし申し候。」
 (われら一門の俳諧も、はや古びましたので少々工夫するところあって、心を尽くしました。)

虚と実

 芭蕉は、「虚と実」もいう。いつも、同じ意味で使うとは限らないであろう。

『聞書七日草』

 元禄二年(四十六歳)『おくのほそ道』の旅で出羽の呂丸に語る。

 「花を見る、鳥を聞く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、これまた天地流行のはいかいにておもひ邪(よこしま)なき物なり。しかもうち得ていふ人にいはば、この心とこしなへにたのしみ、南去北来、仁道の旅人となりて、起居言動に身治まるを、虚に居て実に遊ぶとも、虚に入りて実にいたるとも、うけたまはりはべる。」(『聞書七日草』)

 汚れた世俗に住みながら、そまらず人間の真実をよむ、俳諧に読めなくとも、身が治まるということか。身が治まる、とは、エゴイズムにまみれないことであろうか。

『山中問答』

 次は、おなじく金沢の北枝に語ったもの。この場合、虚、実は意味が違うようである。

 「虚に実あるを文章といひ、礼智といふ。虚に虚あるものは世にまれにして、又多かるべし。此の人をさして正風伝授の人とするとて、翁笑ひたまひき。私いはく、虚に虚なるものとは、儒に荘子、釈に達磨なるべし」(『山中問答』)

 解釈がむつかしいが、『二十五箇条』もあわせて読むと、こうなろうか。世俗にまみれながら、誠しやかにみせるのが文人、礼智。汚れた世俗に住みながら、おろかものとみられて生きる者はまれである、いや多いかもしれぬ。そういう人こそ誠を伝える人だと芭蕉は笑った。私は言った「虚に虚なるものとは、儒教の荘子、仏教の達磨でしょう」と。達磨は中国に禅を伝えた人、中国の禅の開祖。

『二十五箇条』

 次も、同じような芭蕉の言葉を伝える。

「虚実の事
 万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず。実は己を立て、人をうらむる所あり。たとえば花の散るを悲しみ、月のかたぶくを惜しむも、実に惜しむは連歌の実なり。虚におしむは俳諧の実なり。そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。虚に実あるを文章と言ひ、実に虚あるを世智弁と言ひ、実に実あるを仁義礼智と言ふ。虚に虚ある者は世にまれにして、あるひは又多かるべし。此人をさして我家の伝授と言ふべし。」
(『二十五箇条』)

 『二十五箇条』は、支考著。元禄七年六月落柿舎で去来に与えたという伝えもある。芭蕉の言葉を伝えている。
 「虚に虚ある者」を芭蕉は肯定している。これを禅者(達磨を代表として)であり、芭蕉の風としている。とすれば、「虚に虚ある者」という時の、前の「虚」は、無私、無心で、後の「虚」は、それを飾らず、表に見せないことか。「実は己を立て、人をうらむる所あり」というから、この「実」は、自我、虚飾、エゴイスティックな我執である。「虚に実ある」とは、飾る文字である。「実に虚あるを世智弁」とは、誠実を装いながら、誠実がない世俗である。「実に実あるを仁義礼智」とは、道徳レベルである。「虚に虚ある者」は、人目に隠れて見えないが無私、無心、無我の生き様であろう。世俗から見れば、愚か者、無力の者に見えるが、内心は、無私の人であろう。
 芭蕉が、こういうことをいうことは、エゴイズム、煩悩障、そして、虚栄なく飾らぬ生き方を問題にしていたのである。芭蕉も、仏教や禅の理屈の理解ではなくて、生き方を問題にしていたのである。仏教は思想の思惟、研究ではなくて、生活、生き様にある。

『笈の小文』

 「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花(かたち)にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」『笈の小文』(元禄三年ころ成る)

 見るもの、思うものすべて花であり、月である、という。花、月とは自己のたとえであろう。すべてが自己の世界、自己の光明という禅の自覚に通じる。そういう風に見られないのは獣に等しい。自我の目で汚してみないで、自己を超えた天然に従い、天然に帰れ。ここでも、エゴイズムを離れることを問題にしている。理屈の理解ではなくて現実にエゴイズムを離れて、誠実に生きることが、芭蕉の生き方である。芭蕉の俳句には、禅や仏教が根底にある。

『夜話狂』

 「実に居て虚をいふべからず。虚に居て実をいふべし。その人は虚実自在の人なり。」『夜話狂』(支考、宇中編)

 この場合の「実」「虚」は、意味が違う。本来仏の身でありながら、けがすな、世俗に住みながら誠を言え。そのような人が虚実をわきまえ自在に生きる人だ。

芭蕉と良寛

 芭蕉は、「本来の自己」すなわち、人間の本質、こころ、いのちの躍動を、言葉の裏に、底に秘めた句を数多く作る。しかし、芭蕉は、それを禅とはいわず、「不易流行」という言葉で言った。芭蕉の秘めた真意を当時わかるものがいようが、いまいが、門人たちがあれこれ言っても、他の人が非難しても、芭蕉は、その秘密をあかさなかった。後世の、わかる者を意識したとしか思えない。芭蕉に次の言葉があるのはこれを言うのであろう。

 「俳諧に古人なし。ただ後世の人を恐る。」(不玉宛ての去来論書)

 芭蕉は当時の談林風の俳諧から完全に脱皮した。しかも、芭蕉の俳句は、単に自然をうたう他の人の俳句とも違っていた。言葉の遊びではなく、単なる旅や自然を詠んだのではなく、人間をよんだ詩となった。芭蕉の句は、表面は全く、仏法、禅らしい匂いがないのに、実はまさに、禅である。この見事さに、良寛は気づいて、芭蕉を最高度に絶賛する。良寛に次の詩がある。

  この翁以前この翁無く
  この翁以後この翁無し
  芭蕉翁 芭蕉翁
  人をして千古の翁を仰がしむ


 芭蕉について現代のような文芸論があったわけではないのに、良寛は、芭蕉を理解し絶賛したのである。禅者同志、理解しえたのであろう。
 のち、芭蕉は、死ぬすぐ前に「この道や行く人なしに秋の暮れ」という句をよんだ。門人は多くいたが、芭蕉と同じ道をいく人は少ない、というさびしさが感じられる。自己の生命を洞察する確かな目と、俳諧のわざとをともに備えて行く人はなく、我が生命尽きようとする秋になった。良寛も、曹洞宗教団には真実の仏法を伝える僧侶がいないと失望し、教団から離れて、教団を厳しく批判し、わかりあえる人のいない悲しみを漢詩にうたった。良寛も当時の宗門から全く見放されていた。後世の人のために、多くの漢詩などを残した。
 私たちも、五十年、百年も前に、同様のことを考えた人のいたことを今、知ることができる。我々も、今のエゴイズムにまみれた人に認められなくてよい。後世の眼ある人をおそれよう。どうせ、千年の後、現在の個人名は、すべて忘れさられる。

禅と芸術

 絵画でも文学でも音楽でも、芸術はすべて、言葉で伝えられない真実を表現するものでがある。小説や俳句のような文字を使う芸術でも、言葉を超えたものを表現しているものがあるとみるべきである。分析的でなく、直覚に訴える。そういう点で禅と芸術の関連がある。芸術家は創造者である。
 自分の心が自覚したもの、事実を、言葉や絵や音で表現する。仏教者、禅者は己(すべての人)が創造者であることを自覚し、それを日常の生活に表現する。自己生活化、および他者救済行である。芭蕉の俳句は言葉を使うが、言葉そのものを伝えるものではない。言葉の背後にある事実、人生の真理を伝えようとした。芭蕉がみつめたものは禅者と同じものであった。また、生き方がそうであった。
 そのような観点から、芭蕉の俳句の言葉の背後にある人間の真実を読み取ってみたい。(この後の記事に続く)
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