もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌-松尾芭蕉        
芭蕉の禅修行

 芭蕉は仏頂禅師に参禅し、悟りの印可を得たと伝えられている。芭蕉の俳句が人々の心を打つのは、禅、仏教、すなわち、人間の真実が秘められているからであろう。自覚できなくとも、我々の奥底が感応しあうのであろうか。
芭蕉の俳句は禅と密接な関係があることを検討してみたい。ここでは、芭蕉の禅修行の側面に焦点をあてる。


禅修行を始める

 延宝八年(三十七歳)、深川に移住し、精神的にゆきづまっていた頃、近くの臨川庵にいったところ、たまたま仏頂がいたのが、縁となって、芭蕉は仏頂禅師に参禅した。芭蕉の参禅の動機も「苦悩」であった。
 次の記録があるので、芭蕉は一時頭を剃ったようだ。  天和元年(三十八歳)、『次韻』という句集を出したが、次のように、その中に禅の影響がみられる。
 『荘子』という言葉がみられるが、『荘子』は他の俳諧人からも、取り上げられていた。しかし、人生哲学を読むのではなく、言葉の面白さが喜ばれていた。芭蕉一門は『荘子』と禅を結びつけて考えようとしていた。名誉を求めず、自然に生き方の面では『荘子』は禅に似ている面もある。(自他一如、無分別の自己を悟る面は異なる)  荘子に「あひる脛短しといえどもこれをつげば憂へん。鶴脛長しといえどもこれを断たば悲しまん。」とある。
 同じ年の芭蕉の言葉に、禅の無一物の境涯にあこがれる言葉が見られる。  禅者は、自分を乞食とよび、無一物の境涯をめざす者がいる。参禅によって芭蕉がそれを志した様子がうかがわれる。俳諧の「わび」も杜甫や禅の影響があるだろう。
 天和三年(四十歳)江戸大火で芭蕉庵も消失した。長屋を借りて芭蕉庵を再建した時の句がある。  貧窮の生活に低迷している自分への嘆き、俳諧の道においても行き着くべきところへ行き着いていない不満足感を歌ったものだろうと言われる。
 「柏樹子」という禅の公案がある。弟子が「仏とは何ですか。」とたずねると、師匠は「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」と答えた。火事、転居など環境の激変にもかかわらず、「人間の本質は、不生不滅の仏性というが、はて? 私はどうもまだだ。」との思いがこめられているようだ。

芭蕉悟る

 芭蕉は、俳諧を作るかたわら、仏頂に禅の指導を受け、貞享元年(四十一歳)、野ざらしの旅の途中、悟りを得た(詳細は、別に述べる)。この旅の途中から芭蕉の俳諧は大きく変わったといわれているのは、当然といえよう。
 悟るということは、芭蕉の言葉で言えば「物我一致」すなわち、物も他人もすべてが我とひとつである、という自覚を得て、自然観、人間観が一変するからである。
 芭蕉は、人に「物我一致」(一智とも書く)になることをすすめた。芭蕉の俳諧は「物我一致」という禅の体験からきている。物(=対象、客観)と自己がひとつであるという自覚があると、すべて(他人も物も)が自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚が生じる。そこから自然に、誇るべき自己はない、名利をもつべき自己もない、恨むを留める自他もなし、と無の境涯に生きる。しかし、虚無ではなく、すべてが自己という新しい自己、釈尊が、燈明とせよという自分。そして、他人とひとつという自己(=他者)の喜びにために働く。それも見返りを求めない無心で。芭蕉の境涯は禅から来ていると思われる。
(芭蕉の「物我一致」は、重要なので、別に詳細に述べる)

『野ざらし紀行』は悟道の記録

 別に述べるように、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途中で悟りを得た。旅が終わった後、紀行文を書いたのであるが、そう思って見ると、それに芭蕉は悟りを得た経過を裏に秘めて書いている。『野ざらし紀行』の冒頭に
 という言葉がある。これは、中国の臨済系統の僧の漢詩『江湖風月集』より引用し、改変したものである。「無何に入る」は『荘子』の言葉「無可有の郷」であり、何もない広野のことである。大樹があって用いるところがないのを憂えているが、逆にそれでいいのだ。用いるところなければ、伐られるおそれもなく、生きていかれる。「無用の用」のすすめである。
 『荘子』は、自我を捨て、名誉をおわず、自然に生きることをすすめているが、それを芭蕉は禅の生き方と同様とみたであろう(生き方は似ているが、自己の真相の観方は異なる)。「無何に入る」は、無に生きる、無心、無我に生きると同様にみたであろう。そのような人に導かれて旅に出たということは、自分がその旅で、同様に「無に入る」ことをほのめかしている。そして、「馬に寝て」の句で、悟りの事件を裏に秘め、「死にもせぬ」の句で新しい自己に生き返ったことを秘めて、最後の「夏ごろも」の句で、悟りを得たがまだ、未熟だという境地を秘めている。芭蕉は、この旅の途中、名古屋滞在中に出版された芭蕉一門の俳諧集『冬の日』に、自分を「わびつくしたるわび人」といっているのは、この悟道体験が背景にあるためであろう。
 『野ざらし紀行』は、芭蕉の「悟道日記」とでもいうべきものが裏に秘められている。(その詳細は別に述べる)

悟りを印可される

 翌年春、芭蕉は江戸に帰り、仏頂に点検を受けた。芭蕉は、悟りの境地をあらわすために、この時「蛙飛び込む水の音」と答えたと伝えられる。後に、頭の句をつけて有名な俳句ができた。
 貞享四年(四十四歳)八月、芭蕉は常陸に仏頂を訪問した。その模様を芭蕉は『鹿島紀行』に書いているが、その中に「仏頂は人に悟りを開かせる(=深省を発せしむ)」和尚だということを書いて師匠を称賛している。自分を悟りに導いてくれた感謝を述べているのである。  芭蕉が悟りを得たことは、芭蕉の高弟、其角が記録している。芭蕉は正式の僧侶になったのではないとも、いや 出家したともいわれているが、いずれにしても、仏頂和尚に嗣法したと其角が言っている。「嗣法」とは、悟りを証明されて法灯をつぐことを意味する。

旅に出る

 芭蕉は、鹿島から帰るとすぐ、貞享四年十月、『笈の小文』の旅に出た。この紀行文に次の言葉がある。  「しばらく学んで愚をさとらん事を」というのは、坐禅の修行をしたことを意味する。「これがために破られ」とあるごとく、悟りは得たが出家はしなかった。この言葉や、他の言葉からも、芭蕉はまるで坐禅修行が挫折したかのような言葉を残していて、現代の学者は悟りを得ず、救われていなかったとして、晩年の「枯れ野」などを解釈するが、それは誤解である。この誤解が芭蕉の句の解釈まで影響しているだろう。芭蕉は悟りを得たが、謙そんで、悟りを否定しているだけである。本当の金持ちは自分が金持ちであることを隠す、否定するものもいるのである。其角の言葉や芭蕉の書簡、俳諧、紀行などから判断して、悟りを得たのは間違いない。ここを読み違えると芭蕉の句の解釈まで違ってくる。悟りは得たが、既成教団に出家はしなかった、と思われる。

 悟りは深まる。元禄二年(四十六歳の時)、「おくのほそ道」の旅の途中、悟ったことを全く払って、禅と俳諧をひとつとする新しい境地に達し、境涯(生き方)は無一物となり、俳諧の道は何にも頼らず、誰から何をいわれようと動じないものに達したと思われる。ほそ道の旅の最終地、大垣で詠んだ句にそれが秘められている。

其角の禅の師匠の死を悼む

 貞享二年四月、芭蕉が其角(きかく)あてに書いた書簡に次のように禅僧の死亡を悲しんでいる。  芭蕉の弟子其角も大顛和尚(だいてん)に指導を受けて坐禅をしていた。旅の途上でその死を知って、其角をなぐさめている。この様子は、『野ざらし紀行』にも書かれている。俳諧のみ記述することが多い中で「大顛和尚」の記述は詳しい。もう一つの顔、禅者、芭蕉にとって重大な出来事だったのであろう。

蕉門の句は裏がある

 別に、芭蕉の句を幾つかあげて、禅の境地から解釈される裏の本当の心を読むべきことを書くが、次のような芭蕉の弟子の句を見ても、芭蕉やその弟子たちの一部の句は、裏の真意を読みとらねば、その人を理解したことにならないのは明らかであろう。  芭蕉の弟子、丈草が、最近出家したという知人あてに与えた句である。ただ、夏の風物詩を詠んだと解釈するものではない。かやを出て(出家)も、自我の眼、煩悩(障子)があれば、月(如実に知見された自己の真実)は見えない。坊さんになったからとて、終わりではないぞ、自我の目、色眼鏡を捨てて、悟りを得て、真如の月を見るところまで修行しなければだめだぞと、本当の出家(悟り)をすすめているのがこの句の真意である。

芭蕉を送る舟の上で坐禅

 大阪で芭蕉が死んだ時、弟子十人が、芭蕉の遺骸を舟にのせて、湖南に運んだ。弟子は坐禅するもの、念仏を唱える者、思い思いに芭蕉をしのんだ。  禅者の通夜に、同門の者が坐禅し、生前をしのぶのは、何よりの供養である。
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