もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌-松尾芭蕉        
物我一智

 芭蕉の俳諧は「物我一致」という禅の体験からきている。物(=対象、客観)と自己がひとつであるという自覚があると、すべて(他人も物も)が自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚が生じる。そこから自然に自分がない、誇るべき自己はない、名利をもつべき自己もない、恨むを留める自他もなし、と無の境涯に生きる。しかし、虚無ではなく、すべてが自己という新しい自己、他人とひとつという自己(=他者)の喜びにために働く。それも見返りを求めない無心で。芭蕉の境涯は禅から来ていると思われる。


物我一智

 元禄七年(五十一歳)芭蕉は、弟子にあてた書簡で、「物我一智」の境涯に至ることの大切さを説いている。自分がそうでなければ、他の人にすすめるはずがなく、これを見ても芭蕉が悟りを得ていたことは疑いない。「物我一智」とは禅でいうことである。正念でいて、分別ない時、ものと自分はひとつである。人間の自己とは、主体(我)と客体(もの)がひとつであるから、これを哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といったのである。
 「物我一智」と「物我一致」のどちらでも、ほぼ同じである。体験の事実としては、「物我一致」であるが、その体験から得る真実も見る眼は智慧であり、「物我一」を知る智慧、「物我一」に生きる智慧と見れば、「物我一智」である。
 このように、芭蕉は、他者に向上をすすめていたが、自分でも悟道の後も、さらに「物我一智」の人間の真事実から離れないようにつとめていたであろう。それは、「禅の心で生きた芭蕉」にて、検証できる。

心が色、物と成る

 芭蕉の言葉を弟子の土芳が『三冊子』に書き留めているが、その中にも、「心が物になる」という言葉がある。無分別の時、自分はないので、自分が物である。道元禅師は「身心脱落」という。「身心」は「自分」である。自分が脱落すれば、客観(もの)のみである。それが禅であるが、俳句もそうだというのである。 私意を離れよ

 禅の修行においては、師匠の指導に従うことを要求される。その時特に強調されるのは、自分の我見を捨てよということである。芭蕉も俳諧の指導において、そう言った。師の意図を実に受け止めてくれる弟子は少なく、師の教えがわかったといいいふらして、師を貶める者がいる。後世の人によって、道元禅師もずいぶん浅いものにおとしめられてしまった。  芭蕉の生き様と、その俳句に、「物我一智」がある。
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