もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

禅と詩歌-相田みつを

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相田みつをの生涯


 書道家、相田みつを。仏教の精神を短い文章で書にしています。テレビで紹介され、本が多数出版されています。この人は、書道家ですが、坐禅を長年やって、禅のこころを書に書いていますので、ご紹介します。

 相田みつを(敬称を略します)は、大正十三年(1924)、栃木県足利市家富町で誕生した。本名は光男。父喜平、母エイの3男。四男二女の六人兄弟だった。

両親が不和

 彼の両親は、不和であったという。両親の不和は、子供の精神状態に深い影響を与えて、子供が青年期になるころ、様々な心の病気をおこす原因になることがあると言われる(もちろんすべての子供がそうなるわけではない)。みつをが青年期にノイローゼ状態になったことや、妻と母との確執に解決のてだてをとれない一種の弱さも、そういうことが影響していたかもしれない。
「私の家は不幸にして両親がいつも夫婦仲が悪かったんです。晩年は別居しましたから。そういう仲であったから、とうちゃんとかあちゃんがけんかしなければいいなという、不安や脅え(おびえ)がたえずあったんですね。」(C132)

坐禅を始める

 旧制栃木県立足利中学に入学し、剣道部で活躍した。卒業年次に山下陸奥の主宰する歌誌「一路」に参加した。歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の禅僧・武井哲応老師と出会った。みつをは、これより、四十年、坐禅を続けた。昭和十八年[十九歳]書家の岩沢渓石に師事して、書道を習った。昭和十九年、太平洋戦争下で軍隊に応召され、宇都宮の連隊に配属され、敗戦まで通信兵の訓練を受けた。
 母がみつをを離そうとしなかったので、ぶらぶらした生活を送っていたが、昭和二十六年[二十七歳]に関東短期大学夜間部国文科に入学し、二十八年、卒業した。

書道で身をたてる

 昭和二十九年[三〇歳]第一回の書道の個展を足利市で開催した。この年、平賀千江と結婚した。第六回毎日書道展第一部(漢字)に入選し、翌年から数年にわたって毎年入選した。昭和三十年には、ろうけつ染めの技術を学び、近辺の会社、商店の包装紙、暖簾、風呂敷等のデザインを制作することで生計をたてた。
 昭和三十四年に、第二回個展を開催。三十六年からほとんど毎年開催し、昭和五十五年が、第十五回であった。昭和四十一年、足利市八幡町に、アトリエを作り終生この地で創作を行った。昭和四十八年より、全国各地で講演を行った。

母のエゴ

 みつをは、母のエゴイズム(利己主義)が子供をだめにする、と強い言葉で言っている。ある精神科医は「母源病」と言っているが、母の愛情の注ぎ方や育て方によって、その子供が青年期に心の病気(拒食症、神経症など)を起こすことがあるという。
「母親のエゴが、結果的には子供自身をみんなダメにしている、とわたしは断言いたします。」(B26)

 実の母のエゴイズムが、自分をだめにし、妻を苦しめた(テレビS)と思ったことからこの言葉が生まれた。 母が死んで、「気らく」というほどに、母と妻の確執に苦しんだことが感じられる。
 「父母の
 亡きさびしさと
 気らくさよ
 もくれんの葉に
 雨ふりつづく」 (D29)

母と妻の確執

 みつをの母による、嫁(みつをの妻)のいじめは相当に激しいものだった。みつをの二人の兄が戦争で死んで、母は、しばらく発狂した。それ以来、母の愛情は、みつをに注がれた。みつをは正義感があって、ある組織の不正を追求しているうち、暴漢に襲われ、重症をおった。四年間、入院退院を繰り返し、神経衰弱、不眠症になった。母の衝撃は大きく、母の愛情は、ますます異常になった。母は息子の身を案じるあまり、仕事をさせなかった。短歌の会で千江と知り合い、結婚したが、母は反対であった。母は、みつをを盲愛するあまり、千江に「あなたの作る食事ではみつをがかわいそうです。食事も着る物も、こちらで用意します。」という。「千江への憎しみは異常なんです」と、みつを自身が語った。
 妻が母に責められているのをどうすることもできず、つりなんぞに逃げ出してしまうみつを。ここへんに、母のエゴに苦しめられる妻を救えない夫たる自分の不甲斐なさに、みつをは「母のエゴが子供をだめにする」というのであろう。
 母の妻への圧力は想像を絶していたので、みつをは坐禅に救いを求めた。みつをは、母がこうでなかったら、一途に禅の教えを請わなかったかもしれないと言って、「逆縁の菩薩」の言葉が浮かんだという。「おふくろは俺に苦しい思いをさせることによって、俺を救ってくれた菩薩さまではないのか。」
 母が自分を苦しめる人、逆縁の菩薩、と思う悲しい認識である。そういう母も死ぬ直前、母が妻に話かけた。「あんたもからだには気をつけたほうがいいよ」と。二十五年間に初めて聞くいたわりの言葉だった。

仏教の心を書で

 武井老師に禅の指導を受けながら、さまざまな自分のエゴイズムに気づき、書にして、人々に示すと、それを見て、身の上相談に来る人が多くなった。仏教の心をわかりやすく伝えるだけで喜んでくれるひとがいる。「仏様のことばを自分なりの言葉に表現して世の中に働きかけていくこと。」それが自分に与えられた使命ではないのかと思った。
 昭和四十九年[五十歳]在家の仏教活動として円融会を作り、「円融だより」を発行した。それは一九九一年まで七十七号を発行した。昭和五十五年、米田建築(兵庫県川西市)の創立記念誌「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」が作られた。昭和五十八年「相田みつを にんげん展」を東京、小田急百貨店で開催。昭和五十九年、デザイナー松本瑠樹の尽力で『にんげんだもの』を出版した。そののち、『おかげさん』『一生感動一生青春』『いのちいっぱい』を出版した。平成三年十二月、脳内出血により死去した。
 翌年、遺稿集、『いちずに一本道いちずに一ツ事』が出版された。平成八年、東京銀座に「相田みつを美術館」が開かれ、相田みつをの書が展観されている。
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