第4部−仏教・禅の学問上の論争

(整理中です)
信による宗学=学問というより自己の信仰独白
「不毛の議論」「独断・偏見」と批判される。こうした議論がなされる時、社会では種々の問題が発生している。社会への影響はほとんどない。

悟道の否定

・目的のない坐禅
・悟りの否定
・昭和の「正信論争」 「正信論争」とは何か
評価1=佐橋氏の評価
評価2=佐橋氏の評価を再考

評価3=竹林史博氏の疑問
評価4=竹林史博氏の批判
・それ以後の「信」の学問(昭和・平成) 主張1=衛藤即応氏の説
主張2=榑林皓堂氏の説
主張3=坐禅が悟り、面授時脱落という信
主張4=仏教は十二縁起と信ずる、ゆえに道元は過ちを犯した
・昭和・平成の「宗学論争」 ◆「伝統宗学」
・酒井得元氏
・杉尾玄有氏
・石井修道氏(1)
・石井修道氏(2)
・星俊道氏
◆松本史朗「批判宗学」1997/5
・松本史朗氏=仏教は十二縁起と信ずる
・角田康隆氏からの批判
・石井修道氏からの批判
◆角田康隆「宗学」1998/3
・石井修道氏からの批判
・角田氏の道元禅は伝統宗学のうち=1995/3
・角田康隆「宗学」第二版=1998/12
・星俊道氏からの批判
◆石井修道「新宗学」1998/1
・角田康隆氏からの反論
◆吉津宜英「やさしい宗学」1998/6
・角田氏=「社会性」について提言
・角田氏の「社会性」説に疑問
◆大田=平成の宗学論争まとめ
種々の悟り否定説 「面授時脱落説」
・面授時脱落説とは
・主張1=衛藤即応氏の説
・主張2=杉尾玄有氏の説
・主張3=石井修道氏の説
見性の否定の説
 =坐禅が悟りという説
○石井修道氏「悟り体験否定」 
・石井修道氏=面授時脱落説
・石井修道氏=悟り体験否定説
○沢木興道氏「悟り体験否定」 
・沢木興道氏=(1)悟り体験否定
・沢木興道氏=(2)無所得
・沢木興道氏=酒井氏から見た
○酒井得元氏「悟り体験否定」 
・酒井得元氏=悟り体験否定
身心脱落、悟りの意義 ・酒井得元氏=坐禅
・星俊道氏=坐禅
・鈴木格禅氏=身心脱落は坐禅
・身心脱落とは種々の意義あり(工事中)
修行の否定 言葉が絶対 ・松本史朗氏=言葉が仏教
・松本史朗氏=言葉だけが確か
・池田練太郎氏=体験より思想
坐禅は仏教でない ・松岡由香子氏=坐禅は仏教ではない
・袴谷憲昭氏=坐禅は仏教でない
○松本史朗氏=坐禅は仏教でない
・松本氏の信の学問?
・主張1=坐禅は仏教でない
・主張2=我が学問は主観でいく
・主張3=十二縁起のみ仏教
・主張4=慈悲はエリート主義、差別性
・主張5=同時的因果などない
救済(慈悲)の否定 思索することが仏教という説
自分が坐禅することが禅
○慈悲、坐禅はエリート主義、差別性
・高崎直道氏の説
・酒井得元氏の説

・松本史朗氏の説
・酒井得元氏=坐禅するのが利他


禅、仏教は社会に貢献できる
=これらの学説への批判・反対意見=(整理中)
正信論争への批判
佐橋法龍氏から  ・批判1=昭和正信論争以前=自己の信仰を宗学とする
・批判2=昭和正信論争以後=自己の信仰を宗学とする

・批判3=学問をはばむ三つの危険
竹林史博氏から  ・忽滑谷快天氏への批判=論文編集に偏り
・正信論争の新資料の発掘
・「曹洞宗正信論争[全]」の出版
大田から批判  ・批判1=衛藤即応氏への批判
・批判2=榑林皓堂氏への批判
鈴木大拙から  鈴木大拙氏=悟り、見性
鈴木大拙=悟りを学者が否定するのは言いすぎ
伊吹敦氏による批判
独断的、恣意的な学問
教団への批判
・大学の学問が「極めて独断的、恣意的」
(宗派内でしか通用しないような閉ざされた「学問」に閉じこもり、不毛な議論に終始している)
三枝充悳氏などによる批判
仏教は十二縁起説を思惟するのみ説への批判 ・批判=縁起は初期段階説 (十二縁起説は、やや後期に成立した説である。苦の原因・解決法の説明の一つである。実際の苦悩解決には八正道の修行が必要である。八正道が先にあって、仏教は十二支縁起説なしで成立した。十二支縁起説を思惟するのみが正しい仏教というのは偏見である。)
・(6部)仏教学の再検討 (6部は、すべて、縁起のみが仏教と考えている学者への批判である。仏教は、修行を必要であるとしたというのが誠実な学者の見解である。)
大田健次郎による批判
悟りを否定する説への批判 ・酒井得元氏の説に関連して
(釈尊、道元、白隠は、世間に背を向けて、自分たちだけ坐禅していれば終わりといったわけではない。世間との接触を持ち他者救済を強調)
(ほかに多数の批判論文があるが、そのうち整理します)
縁起を考えることのみが仏教という説への批判 ・十二縁起は初期段階で理解 (十二縁起には、貪(苦悩する他者を見捨てて知識偏重の貪りも含む)・瞋(己の見を絶対視して怒るのを含む)の捨棄、見取見等捨棄の「実践」や、無明から晴れるという「解脱」がある)
・「仏教は縁起のみ」の批判 (松本史朗氏の説への批判)
・煩悩の捨棄という観点からの批判
「慈悲」は傲慢という説、、他者救済への批判 ・大乗仏教は次のとおり「慈悲」を強調。が、上記の学者・僧侶はこれを否定。慈悲は心を病む人を治療する医療行為であり、傲慢はいかなる人間の行為にも起こりうる心理(特に煩悩)であり、医療行為自体は否定されてはならない。
・社会を指導すべき専門家ともあろう人々が「認知のゆがみ」
・ほかに多数の批判論文があるが、そのうち整理します。