仏教の本義−竹村牧男氏
「XXは仏教ではない」という異常な学説が出てきた学界の事情を見て、本来の仏教は何を説くものであったのか、竹村牧男氏は再検討した。仏教にとって、最も重要な「心材」は何か。
これは、「目的のない坐禅」という主張への批判です。それは、釈尊の仏教の正伝ではなくなる。
仏教は「十二縁起説のみ」「坐禅は仏教ではない」という学説への批判である。そのような思想偏重が釈尊ではなかった。
仏教の本義−竹村牧男氏
竹村氏は、経典を例証しているのだが、ここでは省略する。
「では、仏教は現代にあまり意味を持ちえないのであろうか。それとも、仏教は無我や空や縁起だけでない、より重要で現代に意義ある思想を有しているのであろうか。我々はここで、本来の仏教は何を説くものであったのか、再度検討しなおすことにしよう。」(1)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、196頁。
(a)不死を体得
竹村氏は、スッタニパータについて、検討した。まず、第一に、釈尊は「不死」を体得した。
釈尊は、「菩提樹下に坐禅して悟った。それは一言でいえば、不死を体得したということである。」(1)
「この聖句によれば、悟りおわるとき、人は不死の底に達する、不死の自己を自覚するのである。では、この不死ということはどういうことなのであろうか。」(2)
不死とは「永遠の生存を得たとは説かれていない。」「3)
「生と死とをともに捨てる」のである。「不生・不死、それが不死の底というものであったろう。」(4)
「不死」とは、生死を超えた境界である。
「この世を捨て、かの世をもともに捨て去る。天国に生き続けるわけではない、極楽に住み続けるわけでもない。有限の生を捨て、永遠の生をも捨てるのである。あるいは生死をそっくり超えるのである。生と死との対立が超えられた地平、そこに不死の自己を見出すべきであろう。」(5)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、197頁。
- (2)同上、198頁。
- (3)同上、198頁。
- (4)同上、199頁。
- (5)同上、199頁。
(b)二元対立を超える
仏教の心材は「不死」だけでは、語りきれない。「二元観」を超えることが言われた。
「ところで、生死だけではない、様々な二元対立を超えるということが、釈尊の説法の中には、随処に、様々な形で出てくるのである。」(1)
生死ばかりではなく、禍福、罪過あり・なし、清浄・不浄、善悪、といった、あらゆる二元対立が捨てられ、両極端を願わない、とされている(2)。
「両極端を願うことがない、ということは、二元対立の一方を認得し、執著しないということである。諸々の事物に関して断定を下すということは、やはり二元対立のどちらか一方を取るということである。その結果、他を切り捨てて一方に固執する。言い換えれば、対象論理から出られないとき、我々は必ずや両極端の一方にとらわれることになる。そういうあり方を脱却せよ、というのである。」(3)
「こうして我々は、あの不死の悟りは、決して生・死の否定のみでなく、一切の二元対立の否定の中に実現することを確認しうるであろう。たとえば『中論』帰敬頌にいう、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」の八不の世界である。釈尊の『スッタニパータ』の説法は、まぎれもなく『中論』につながっているのである。一方、『マッジマニカーヤ』(『中阿含経』)に含まれる『聖求経』にも、釈尊は不生・不病・不老・不死なる涅槃に達し、わが解脱は不動であると自覚したとある。私はここに、仏教を貫く一つの根源的な大道を見るのである。」(4)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、199頁。
- (2)同上、200頁。
- (3)同上、201頁。
- (4)同上、201頁。
(c)不死にどのようにして到達するか
「では、この不死の底にはどのようにして到達されるのであろうか。」(1)
断片的であるが、竹村氏の説明の筋を追う。
「対象論理、いわば分別的知性が、一たんは超えられなければ、あらゆる二元対立を超えることはできないであろう。」(2)
「一切の意識されるものに対する喜びと偏執と識別とを除き去れという。」(3)
「焦点はあくまでも識別作用が止滅する、ということである。それが悟りの世界への鍵となるのである。」(4)
「対象論理、分別を滅することは、戯論が寂滅することである。そこに八不の世界、一切の二元対立を脱落した境界がある。『中論』は正にこのことを中心に説いている。それは、釈尊の仏法に正しく根ざしていたことを、我々はすでに見すえることができたであろう。もちろんそれは、必ずや禅定の中に成就するであろう。」(5)
この禅定を成就するには、やや後期に、「八正道」とされる修行が実践された。「スッタニパータ」では、そのようにまとめられる前の素朴な言葉で語られているが、おおよそ、実質は「八正道」と同じであると考えてよい。要は「禅定」を成就すればよいのである。それは、「二元対立」を超えるような行でなければならないのはいうまでもない。
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、202頁。
- (2)同上、202頁。
- (3)同上、202頁。
- (4)同上、203頁。
- (5)同上、203頁。
(d)戯論寂滅はどのような世界か
「では、その戯論寂滅の境界とはどのような世界なのであろうか。」(1)
「一切の分別を超えるというとき、たとえば、何も考えず、何も動作せず、精神的にも身体的にもただじっとしているだけということになるのであろうか。ただ空白が広がるのみの心境が、悟りの境地なのであろうか。
もちろんそうではあるまい。思うに、八不(一切の二元対立の否定)とは、生じない、滅しない等、あらゆる述語が成立しないということであり、故に主語が立たないということである。すなわち、対象化されたものの把握が一切ないということである。しかしそこでは、主体が正に主体のあり方にあることが実現しているということである。主体としての自己が、その主体のあり方のままにあることが成就しているただ中、むしろ絶対の主体、絶対の生が成就しているただ中であろう。不生不死は、不生の一言に集約されうるが、その不生とは絶対の生のことだったのであり、絶対の主体のことだったのである。」(2)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、203頁。
- (2)同上、204頁。
(e)不死、戯論寂滅を実現した人は慈悲行に働く
不死を得た人は、山中などに隠棲するのではなく、自発的に、社会とのつながりを持ち、他者の苦悩を抜くために働きだす。
「外からの規定に縛られることが一切ない、それは主体が正に主体のままにあるからである。そして無一物だという。これは物質的所有がない、ということだけではない。むしろ心理的に、対象として把握しているものが何もないということである。それでいてしかも熟慮して世の中を歩むのである。無一物の主体は、山水の彼方に隠棲するのではない。世の中を歩んで汚されないのである。」(1)
「少なくとも『スッタニパータ』を見る限り、絶対の主体の自覚と実現にこそ仏教の核心があったのである。それは、どこまでも無一物の中に現成するのであり、たとえば大我を認めて絶対の主体とするのではない。むしろ一切の分別、外的にも内的にも、対象的把握を一切透脱したところに自覚される主体そのものである。主体そのものであるが故に、それは何びとの傭い人でもないのである。」(2)
大乗仏教では、自分のみの苦の解消(自利)ではなくて、他者の利益、他者の救済という「慈悲行」を強調する。結局、自利だけの場合、種々の過ちに陥り自覚がない。思想の知解、中途はんぱな修行、誤った(独善的な浅い)悟りでおごる、教団内や山中に隠棲して社会との接触を断つなどに留まる、教団やグループなどの閉鎖された組織内での出世、名誉を得て喜ぶ、など、種々の過ちに陥るが、その過ちに気づきにくい。
外部の他者との関係を断つ(現実に苦悩する人に接触しない)ならば、仏教者は社会には無用のものとなることである。人々の苦悩は広く深く、その実際解決は容易なことではない。救済行に乗り出せば、知解・浅い修行・浅い悟り、地位・名誉などの無力さに気づかされるから、大乗は、他者との関係、慈悲行に乗り出すことを強調したのであろう。
竹村氏は、次のようにいう。
「誰の傭い人でもない主体は、正にその故に、自らの意志で、自ら主人公となって、かえって他者のために働き尽くしてやまないのである。そういう大乗仏教の人間存在の究極に関するモチーフは、無一物で世間を歩むという釈尊とはっきりつながっていよう。
実際、釈尊は、あくまでも他者の利益ということを考えていたが故に、むしろおのずから他者に働きかけずにはいられなかったが故に、相手に応じて、ひたすら苦悩の矢を抜くつとめに従事した。」(3)
「釈尊は、一切の生きとし生けるものの幸せを祈っていう。どんなものをも差別し、排除することがない。それは一点無縁の大悲というものである。釈尊に実現した真実の自己は、このように、一切の他者の幸せを祈る主体であった。無一物で世間を歩む者が、一切の生きとし生ける者の幸せを祈るとき、その所作・ふるまいはおのづから利他行の数々となった。それはまったく自発的な行為なのである。」(4)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、205頁。
- (2)同上、206頁。
- (3)同上、207頁。
- (4)同上、208頁。
(f)思想との関係および現代的意義
釈尊の仏教の核心は、このようなものであったのであるから、思想のみの優劣を論争するのは、馬鹿げている。
「以上、『スッタニパータ』の諸々の聖句を見るとき、あらゆる二元対立を離れて、かえって絶対の主体を自覚したとき、その主体はおのづから一点無縁の大悲を発揮することになる、ということが説かれていたということいなろう。無我・空・縁起は、そこにつながるとき意味があるのであり、それ自体としてはさほど意味はない。あるいはそれ自体が究極だというわけではない。もしそれらに執するとしたら、その場合も「諸事物に関して断定を下して得た固執の住居」にすむことになってしまうであろう。我々は、両極端にも、中間にも、汚されてはならないのである。」(1)
縁起・無我・空の思想を考え論争するだけの学問仏教ではなくて、上記のような他者の利益のために働く主体的自己実現の実践的仏教は、やはり、現代に大きな意義を持つ。
「一方、自ら主人公となり根源的な主体を確立し、しかもおのづから他者との関係を生きぬくというモチーフは、現代社会にあって真実の自己を見失いがちな人々に、もう一度、人間の原点を再確認させてくれるのではなかろうか。超越的な規範を失い、人と人との間は分断化され、個人は細分化され、日々欲望の充足にかり立てられるしかない現代人にとって、自己と他者の存在のことをもう一度思い出させてくれる意味があるであろう。混迷を深める現代において、諸症状の応急の処置にただちになりうるわけではないとしても、深い地平において一人一人に生きる方向を与えてくれるであろう。
その限り、仏教はなお多くの意味を持つと考えられるのである。」(2)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』大東出版社、1997年、209頁。
- (2)同上、209頁。
(4/11/2003、大田)