仏教の本義−竹村牧男氏

 「XXは仏教ではない」という異常な学説が出てきた学界の事情を見て、本来の仏教は何を説くものであったのか、竹村牧男氏は再検討した。仏教にとって、最も重要な「心材」は何か。
 これは、「目的のない坐禅」という主張への批判です。それは、釈尊の仏教の正伝ではなくなる。
 仏教は「十二縁起説のみ」「坐禅は仏教ではない」という学説への批判である。そのような思想偏重が釈尊ではなかった。

仏教の本義−竹村牧男氏

 竹村氏は、経典を例証しているのだが、ここでは省略する。
(注)
(a)不死を体得
 竹村氏は、スッタニパータについて、検討した。まず、第一に、釈尊は「不死」を体得した。
 釈尊は、「菩提樹下に坐禅して悟った。それは一言でいえば、不死を体得したということである。」(1)
 「この聖句によれば、悟りおわるとき、人は不死の底に達する、不死の自己を自覚するのである。では、この不死ということはどういうことなのであろうか。」(2)
 不死とは「永遠の生存を得たとは説かれていない。」「3)
「生と死とをともに捨てる」のである。「不生・不死、それが不死の底というものであったろう。」(4)
 「不死」とは、生死を超えた境界である。
(注)
(b)二元対立を超える
 仏教の心材は「不死」だけでは、語りきれない。「二元観」を超えることが言われた。  生死ばかりではなく、禍福、罪過あり・なし、清浄・不浄、善悪、といった、あらゆる二元対立が捨てられ、両極端を願わない、とされている(2)。
(注)
(c)不死にどのようにして到達するか
 「では、この不死の底にはどのようにして到達されるのであろうか。」(1)
 断片的であるが、竹村氏の説明の筋を追う。  この禅定を成就するには、やや後期に、「八正道」とされる修行が実践された。「スッタニパータ」では、そのようにまとめられる前の素朴な言葉で語られているが、おおよそ、実質は「八正道」と同じであると考えてよい。要は「禅定」を成就すればよいのである。それは、「二元対立」を超えるような行でなければならないのはいうまでもない。
(注)
(d)戯論寂滅はどのような世界か
 「では、その戯論寂滅の境界とはどのような世界なのであろうか。」(1)

(注)
(e)不死、戯論寂滅を実現した人は慈悲行に働く
 不死を得た人は、山中などに隠棲するのではなく、自発的に、社会とのつながりを持ち、他者の苦悩を抜くために働きだす。  大乗仏教では、自分のみの苦の解消(自利)ではなくて、他者の利益、他者の救済という「慈悲行」を強調する。結局、自利だけの場合、種々の過ちに陥り自覚がない。思想の知解、中途はんぱな修行、誤った(独善的な浅い)悟りでおごる、教団内や山中に隠棲して社会との接触を断つなどに留まる、教団やグループなどの閉鎖された組織内での出世、名誉を得て喜ぶ、など、種々の過ちに陥るが、その過ちに気づきにくい。
 外部の他者との関係を断つ(現実に苦悩する人に接触しない)ならば、仏教者は社会には無用のものとなることである。人々の苦悩は広く深く、その実際解決は容易なことではない。救済行に乗り出せば、知解・浅い修行・浅い悟り、地位・名誉などの無力さに気づかされるから、大乗は、他者との関係、慈悲行に乗り出すことを強調したのであろう。
 竹村氏は、次のようにいう。
(注)
(f)思想との関係および現代的意義
 釈尊の仏教の核心は、このようなものであったのであるから、思想のみの優劣を論争するのは、馬鹿げている。  縁起・無我・空の思想を考え論争するだけの学問仏教ではなくて、上記のような他者の利益のために働く主体的自己実現の実践的仏教は、やはり、現代に大きな意義を持つ。
(注) (4/11/2003、大田)