宗学論争のまとめ
??? 昭和・平成の宗学論争 ???
一部の学者から、学問ではない、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者はそういう論争してきている。
種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
吉津宜英氏(駒沢大学)は「やさしい宗学」を提案した。その中にある「社会性」について、角田康隆氏からの問題提起がある。
その角田氏の「社会性」説に疑問がある。
「坐禅が悟り説」の大田からの批判
- 「坐禅が悟りである」という思想を絶対視するのは、次のように浅いものである。もしそのような浅いものであれば、道元には中国禅僧を批判する資格などないであろう。
- 自我を残して、坐禅が悟りである、と了解し、信じているということは、大乗仏教が明らかにした、二空でない。
- 坐禅が悟りであるから、そのような「法」を絶対化して、法執がある。
- 坐禅の真相だけを明らかにした思想であるから、人間の真実を明らかにした教義ではない。従って、人の苦悩を解決するものではなくて、自利、我利である。
- 坐禅のみが悟りであるから、坐禅していない時には、悟りはない。社会から逃避するような思想である上に、道元が典座の職務を重視するのと矛盾する。
(大田評)
角田氏の「社会性」の受け止め方には、疑問がある。伝統宗学が、批判された意味を真摯に受け止めない見方になっているようである。伝統宗学は、社会との接触を断つことを肯定する思想なのである。そこを批判して種々の新しい宗学が提案されているのに、伝統宗学を追認しようとしている。
「道元禅師を見つめながら、深く信仰しながら、社会の現実問題とも大いに関わろうとし、実際に関わっている学者あるいは僧侶は大勢いる。」という、これは学問的な解釈なのだろうか。
「社会の現実問題とも大いに関わろうとし、実際に関わっている」のは、道元禅師の思想を伝統宗学が社会性を持つように提案しているのではなくて、道元禅師の思想とは無関係な部分で社会性を持つように努力しているにすぎないのではないか。たとえば、詠歌講、葬儀、難民救済ボランティア、教育事業など、である。こういうことは社会性を持つ重要な活動ではあるが、「坐禅のみが悟りである」という伝統宗学からは出てこない。坐禅が社会の(坐禅していないところでも)現場でいかされるという主張が「伝統宗学」にはない(それは道元禅師の問題ではなく伝統宗学者の問題である)。伝統宗学が社会に背を向けた思想であるので、他の世俗の価値観によって、上記のような活動(詠歌講など)で社会性を持とうとしているようにみえる。道元禅師は、こういう活動を積極的には肯定していない。僧侶でなくてもできることだというのであろう。合戦、飢餓、生命の危機の中にあった庶民に対して僧侶しかできない行動とは何か。道元禅師の社会性の真意(慈悲)が伝統宗学で解明されてはいないと考える。
詳細は、別に掲載する。