角田氏の「社会性」説に疑問

 =1、吉津宜英「やさしい宗学」の提案あり
 =2、その中の「社会性」について角田康隆氏からの問題提起
 =3、その角田氏の「社会性」説に疑問
??? 昭和・平成の宗学論争 ???

 一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
 種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
 吉津宜英氏(駒沢大学)は「やさしい宗学」を提案した。その中にある「社会性」について、角田康隆氏からの問題提起がある。
 その角田氏の「社会性」説に疑問がある。

学問、学者の「社会性」

 角田康隆氏は、種々の宗学の提案を概観した後で、社会性についての意見を述べている。その主張に少し疑問がある。(A)-(G)の記号は、原文にはなかったもので筆者(大田)が挿入した。この部分について、考えてみたい。

(角田氏) (角田氏) (角田氏) (角田氏) (8/21/2003>
(大田評追加)
 「伝統宗学」も、「批判宗学」も、自分の信仰、自分の好き嫌いが先にあって、経典や語録の文字を自己都合で選び取り、自己の説に都合のよい解釈をしている。それは、佐橋法龍氏や宗門に直接関係のない学者から指摘されている。
 次のように、宗教学者が、自己と厳しく対決していないと、哲学者がいっている。人種差別、飢饉、戦乱の中で苦悩する人が多かった時に、十二縁起の思惟のみ、ただ坐禅が悟りという宗教を、組織(教団にも大学にも)に頼らず自分一人で、始めてみると考えてみればよい。厳しい状況で生きている人々に向かって、自分の解釈する教えで説いて、人々をひきつけられたかどうか。そして、今、教団にも大学にも頼らず、一人で、人々に説いていくほどに自己自身と対決したかどうか。
 宗教の学問における偏向を感じていた人は多い。吉津氏の警鐘は、ようやく、誠実な自己批判、内部告発(自分の教団組織の方針を教団に属する学者がまともに批判)が始まったのかもしれない。学者でない、幾人かの僧侶は、ずっと以前から、それを主張してきたのに、一部の僧侶が排除し、学者が、それに加担してきたようである。学問が、仏教や道元禅の真理を解明するのは、これからである。