吉津宜英「やさしい宗学」
??? 昭和・平成の宗学論争 ???
一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
吉津宜英氏(駒沢大学)は「やさしい宗学」を提案した。
吉津宜英「やさしい宗学」
吉津宜英氏の提案を角田康隆氏がまとめたもので、吉津氏の提案は、次のとおりである。
「
1.既に修得している既知の知識を大切にし、次に未知にチャレンジし、更に無知を恐れる学問の立場。
2.出来るだけ分かり易く、自分の意見を表白し、分かっていることと分かっていないことのけじめを付け、予想も出来ない無知性のあることを認める。
3.研究対象を出来るだけ丁寧に扱い、優しく見護り、それを最大限活かす研究。
4.自分を卑下することなく、高ぶることなく、我慢することなく、道元と対対の視線を持つ。
5.道元にも色々の問題点が存在し、批判すべき面があることを認める。但し、そこに安易に自己の価値判断である正邪や善悪を持ち込み、道元の一生のある部分のみを肯定し、他を否定するようなことは、全体的に人間を理解する視点からは、その人物を活かして理解するよりも、殺してしまうことになりかねない。人間研究において大切なのは研究者の「柔軟心」、忍辱の実践であり、我慢して、必要以上に礼賛したり、批判のための批判をしたりするのではなく、相手の問題点を相対化し、全体的に柔軟に理解する。現実の生きている人間を理解するように道元に対する。
6.オープンな宗学
単に曹洞宗一宗の自己と言うだけではなく、自己の中に出来るだけ多くの宗派を位置づけ、また仏教だけではなく、異宗教をも位置づけて、観察し、考察する。
7.責任性が問われる宗学
その当人がどのような社会的行動をとり、どのような内容を発信して行くかという責任性が問われる。
8.個人に由る宗学
集団的に何かを行うということではなく、個人の具体的行動、個人の責任の発揮、個人の自由と責任のところに、仏教自立、再生、活性化の道がある。
(駒沢大学仏教学部教授の吉津宜英博士の提案する宗学論。これは、平成十年六月二十四日に行われた曹洞宗宗学研究所主催一九九八年度第三回公開研究会の吉津氏の資料をもとに吉津が提唱する「やさしい宗学」を筆者が八つに箇条書きにまとめたもの)
」(1)
(注)
- (1)角田康隆「宗学再考」(『駒沢短期大学研究紀要』第27号、平成11年3月)、90頁。