角田康隆「宗学」第二

??? 昭和・平成の宗学論争 ???

 一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
 種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
 角田康隆氏(駒沢短期大学)は、1998年3月「宗学」を確認した。その後、批判を受けたが、同年12月、あらためて「宗学」とは何かを発表した。

角田康隆「宗学」第二版

 角田康隆氏の提案する「宗学」は、次のとおりである。
(注)
(大田評)
 【補】Dに見るとおり、「伝統宗学」の死守である。「坐禅が悟りであると信じる」(ただし、角田氏は面授時脱落説はとらない)ということであろう。「伝統宗学」は、佐橋法龍氏などから「信仰的独白」にすぎないと批判されたのに、「信」の死守が、「宗学」の中に含まれている。道元禅師の教義のすべてではないかもしれないのに、「伝統宗学」を成立させた江戸時代の宗門の僧侶と同じ「信」を死守するという立場である。これは、解釈、信であり、道元禅師の教義そのものではない。
 このDは、おかしいような気がする。たいていの組織は過去において過ちを犯したことがある。「教義」の「解釈」も誤ることだってありえる。学問が発展して、「伝統宗学」の一部を変更することはありえないのか。学問は進展しないのか。過ちが認められても改めないのか。「教義」は道元禅師の教え(「正法眼藏」など)そのものであるべきであって、その「解釈」は変更あってよいはずである。「解釈」を変えても、「宗学の消滅につながり、内容的に見た場合の曹洞宗の消滅につながる」ということはないはず。この論理は学問的ではなくて、情緒的、感情的である。

(8/28/2003、大田)