角田康隆「宗学」
??? 昭和・平成の宗学論争 ???
一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
角田康隆氏(駒沢短期大学)は、「宗学」を確認した。新しいものではないという。
角田康隆「宗学」
角田康隆氏の提案する「宗学」は、次のとおりである。
「
イ.広義において、宗学を「曹洞宗に関わる学問」と見る場合、基本的に左記に関する学問である。
@両祖に関する歴史的(伝記)・書誌的(著作)・思想史的研究、およびそれらと関わるその周辺の研究。
A両祖の思想的母胎(それ以前の仏教教理・人物等総てを含む)に関する研究。但し、両祖の思想との関係を問題としたもの。
B両祖以降の曹洞宗に関わる人物の歴史的(伝記)・書誌的(著作)・思想史的研究、およびそれらと関わるその周辺の研究。
C曹洞宗に関わる事象の研究。
ロ.狭義において、宗学を「宗旨の学問」と見る場合、基本的に左記に関する学問である。
@道元禅師の教義に関する研究。
*螢山禅師の教義に関する研究も同等に重要であるが、教義においては、道元禅師が歴史的に螢山禅師に先行すること、および、主な研究対象である著作が膨大なこと、また螢山禅師の教義も基本的に道元禅師に依っていると考えられることから、ここでは一応、道元禅師に限定する。但し、両祖は別人物であるため、当然教義の差違はあり得る。
*@は、現存する道元禅師に関わる文献に基づく研究であり、その結果において「道元禅師が目指そうとされたもの」を研究者が推測し、研究者がそれを目指すことは、研究者の私的生き方の問題であり、「宗学」とは言えない。
A@の研究に不可欠な歴史的(伝記)・書誌的(著作)研究。
ハ.ロにおける宗学は、左記の研究方法をとるべきものであると考える。
@道元禅師無謬説に立つ。
*無謬説に立たない場合、道元禅師の教義について、自らの判断において正邪を決し取捨選択することにつながり、研究の基礎(土俵)が崩れる。
A道元禅師の著作について、己見を持って取捨選択しない。
*初期の著作を排除したり、晩年の著作のみを重視しない。
*道元禅師の著作について、道元禅師自らが書き改めるか、あるいは自らその誤りを明示していない限り、道元禅師の著作総てを、道元禅師の研究の資料として認める。道元禅師が明言していない限り、道元禅師がその著作の内容について認められていたものと受け取る。
B道元禅師に思想的変化を認めない。
*道元禅師の説示の違いを、思想の変化と受け取らない。即ち、説示の変化(相違)については、道元禅師自ら述べられていない限り、短絡的に思想(自内證)の変化とは受けとらず、外的要因に応じての変化、対機、真実と方便、弘法と救生、その他について、種々の可能性を考究する。
C道元禅師の教義を、その文献に基づいて、可能な限り客観的(*主観を完全に交えないことは、おそらく不可能であろうから)に研究する。
D道元禅師の教義を、あらゆる思想(縁起説・人権思想等)によって切らない。(いかなる論説、思想、主義主張であっても、それに基づいて、道元禅師の教義を価値判断し、優劣・正邪を論じない。もちろん、そのような学問は当然認められるが、それは「宗学」には属さない。(『宗学研究』40号、1998年3月)
」(1)
(注)
- (1)角田康隆「宗学再考」(『駒沢短期大学研究紀要』第27号、平成11年3月)、87頁。