吉津宜英「やさしい宗学」の「社会性」について
=角田康隆氏からの問題提起
??? 昭和・平成の宗学論争 ???
一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
吉津宜英氏(駒沢大学)は「やさしい宗学」を提案した。その中にある「社会性」について、角田康隆氏からの問題提起がある。
吉津宜英「やさしい宗学」
角田康隆氏は、種々の宗学の提案を概観した後で、社会性についての意見を述べている。
「
これまでの「宗学」に対するものとして、松本・「批判宗学」、石井・「新宗学」、吉津・「やさしい宗学」の中に、ほぼ共通の主張がある。たとえば松本・「批判宗学」では「7.批判宗学は、本質的に、社会的(「誓度一切衆生」)でなければならない」とし、石井・「新宗学」では「8.あるべき教団の教化学へ提言できる視点」「9.教化学への提言」という表現をし、吉津・「やさしい宗学」では、「現実の社会的諸問題への具体的提言」をすべきであるとしている。
新たな「宗学」の提言者が、一様にこのような社会性を言っていることは、筆者には非常に興味深い。
しかし、筆者の思うに、宗学という学問自体は、社会的であるわけでも、社会的でないわけでもない。たとえば、宗学には、書誌的研究・歴史的研究・思想的研究等あるが、書誌的研究で、著作の撰述年代を考察したり、歴史的研究で道元禅師の両親は誰かというような研究をしたりする。これらはもちろん宗学であるが、必ずしも社会的であるとはいえない。
社会的でなければならないのは、宗学そのものではなく、宗学を研究する研究者であり、研究者は時には、学問のための学問ではなく、社会に貢献するための学問を行わなければならないと思うのである。
松本・「批判宗学」が言うように、「本質的に、社会的でなければならない」というなら、「批判宗学」のみならず「仏教学」も「禅学」も「宗学」も社会的でなければならないであろうが、学問は必ずしも社会的ではないと筆者は考える。また、「具体的提言」まで含めて「学問」であるのか、疑問である。社会に対する具体的提言は、学者において、学問研究をもとに行われるべき社会的実践なのではないか。とにかく、社会的であるべきは「仏教教団」であり、そして、「宗派」・・・「曹洞宗」である。仏教教団が、そして曹洞宗が社会的でないとしたら、これは問題である。
これまでの「宗学」はむずかしいとか、社会にかかわっていないとか、そういうことはない。吉津・「やさしい宗学」では、これまでの「宗学」を「甘い宗学」と位置づけ、「道元だけを見つめて、一切衆生の立場、具体的には社会への諸問題への提言や取り組みが忘れられているようなことでは、「甘い宗学」の謗りも免れない」としているが、道元禅師を見つめながら、深く信仰しながら、社会の現実問題とも大いに関わろうとし、実際に関わっている学者あるいは僧侶は大勢いる。吉津・「やさしい宗学」も、そういう人間の存在を見ているはずである。
」(1)
(注)
- (1)角田康隆「宗学再考」(『駒沢短期大学研究紀要』第27号、平成11年3月)、98頁。
(大田評)
角田氏の「社会性」の受け止め方には、異論がある。伝統宗学が、批判された意味を真摯に受け止めない見方になっている。伝統宗学は、社会との接触を断つことを肯定する思想なのである。そこを批判して種々の新しい宗学が提案されているのに、伝統宗学を追認しようとしている。
「道元禅師を見つめながら、深く信仰しながら、社会の現実問題とも大いに関わろうとし、実際に関わっている学者あるいは僧侶は大勢いる。」という、これが問題である。
詳細は、別に掲載する。