「伝統宗学」

??? 昭和・平成の宗学論争 ???

 一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
 種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。

「伝統宗学」

 「伝統宗学」を角田氏は、次のように説明する。  角田氏は、江戸期以来の『正法眼蔵』参究の歴史を概観する。西有穆山(1821-1910)が『正法眼蔵啓迪』を著して、難解な『正法眼蔵』を読み解くのに貢献した。西有は、注解するが、実際に修行しなければわからない、と繰り返し警告している。  角田氏の説明をすべて省略して、まとめの部分を引用する。
(注)
(注)
 西有穆山も、「伝統宗学」も、実践を重視する。しかし、その実践は、坐禅のみであり、大乗唯識説でいう「無分別智の證得」にあたる「悟り」を認めない。すなわち、白隠禅師がいうような「悟り」を認めない。「伝統宗学」は、「悟り」とは坐禅すること以外にない、と道元禅師が主張したと解釈した。「伝統宗学」の坐禅のみが悟りという解釈は、道元禅師の真意を誤解しているという批判をしたのが、原田祖岳、安谷白雲、井上義衍、板橋興宗、原田雪渓などの諸氏である。この人たちの主張は「○○宗学」の名さえ冠せられず、角田氏の論文にも、ふれられることなく、学問的な研究から阻害されている。
 この「伝統宗学」の坐禅は、仏教ではない、道元禅師も初期、仏教ではないものを主張していた、間違った、というのが、松本史朗氏の「批判宗学」である。しかし、これにも、厳しい批判がある、