「伝統宗学」
??? 昭和・平成の宗学論争 ???
一部の学者から、「不毛の議論」をしていると酷評される禅の学問。昭和から平成の現代まで学者は何を論争してきているのか。
種々の学問方針が提案されてきた。角田泰隆氏(駒沢短期大学)がその主要な方針を整理した論文「宗学再考」があるので、それで禅の学問の歴史を概観したい。
「伝統宗学」
「伝統宗学」を角田氏は、次のように説明する。
「「伝統宗学」とは、主として道元禅師の主著『正法眼蔵』を対象とした参究であり、それは研究ではない。また、批判的な学問ではない。」(1)
「「伝統宗学」の定義において、よく取りあげられるのが、榑林皓堂先生の「伝統宗学」についての次の定義である。
伝統宗学とは、道元禅師に親しく接した直弟子である詮慧の『聞書』と、詮慧の弟子経豪の『抄』を最高の注解となし、その解説を至上として仰ぐ一派である。(『道元禅の本流』、大法輪閣、一九七七年十月)
「伝統宗学」とは、・・・一派であるというのは、やや不自然な表現であるが、これによると、『聞書』と『御抄』を重んじる学派ということになる。ここには表れてこないが、最重要であるのが『聞書』や『御抄』であるということであって、江戸期の注解書も含めたものであろうと思う。ここで、「伝統宗学」というのは、文字通り学問ではあるが、と同時に「学派」であるというのが興味深い。
これによれば、「伝統宗学」とは、『正法眼蔵』を参究する参究方法であって、『正法眼蔵』の参究に限定される学問であると考えられる。このような定義が妥当であるのか、次に『正法眼蔵』参究の歴史を概説してみよう。」(2)
角田氏は、江戸期以来の『正法眼蔵』参究の歴史を概観する。西有穆山(1821-1910)が『正法眼蔵啓迪』を著して、難解な『正法眼蔵』を読み解くのに貢献した。西有は、注解するが、実際に修行しなければわからない、と繰り返し警告している。
「この西有穆山の『正法眼蔵』参究は、その後の『正法眼蔵』参究者に大きな影響を与えている。岸沢惟安にしても、丘宗潭にしても、榑林皓堂にしても、みな西有穆山の参究を受け継ぐものであると言える。また、筆者も含めて現代の『正法眼蔵』研究者に大きな影響を与えるものである。」(3)
角田氏の説明をすべて省略して、まとめの部分を引用する。
「さて、「伝統宗学」の様相について、西有穆山・岸沢惟安の『正法眼蔵』参究態度を紹介して論じたが、両師が「伝統宗学」の流れを汲む「一派」の重要人物であることは衆目の認めるところである。その「伝統宗学」が、『正法眼蔵』を中心にした道元禅師の著作の参究に限定されるものであり、参究者の実参実究を重んじ、解釈にあたっては、道元禅師の直弟子、詮慧・経豪の『御抄』を最も思んじ、それに加えて江戸期の宗学者の諸註解によりながら道元禅師の宗旨を参究する人々の流れ、あるいは参究姿勢、参究方法であるという定義は妥当なものであろう。」(4)
(注)
- (1)角田康隆「宗学再考」(『駒沢短期大学研究紀要』第27号、平成11年3月)、76頁。
- (2)同上、77頁。
- (3)同上、82頁。
- (4)同上、84頁。
(注)
西有穆山も、「伝統宗学」も、実践を重視する。しかし、その実践は、坐禅のみであり、大乗唯識説でいう「無分別智の證得」にあたる「悟り」を認めない。すなわち、白隠禅師がいうような「悟り」を認めない。「伝統宗学」は、「悟り」とは坐禅すること以外にない、と道元禅師が主張したと解釈した。「伝統宗学」の坐禅のみが悟りという解釈は、道元禅師の真意を誤解しているという批判をしたのが、原田祖岳、安谷白雲、井上義衍、板橋興宗、原田雪渓などの諸氏である。この人たちの主張は「○○宗学」の名さえ冠せられず、角田氏の論文にも、ふれられることなく、学問的な研究から阻害されている。
この「伝統宗学」の坐禅は、仏教ではない、道元禅師も初期、仏教ではないものを主張していた、間違った、というのが、松本史朗氏の「批判宗学」である。しかし、これにも、厳しい批判がある、