「正信論争」への疑問=竹林史博氏

??? 論文編集に偏りがあった ???

批判=論争に参加した人々の論文を編集した書物は「公平中立」ではなく、実践派が非常に不利に編纂された


 禅の学者は、明治以来、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、という。わかりやすく言えば、道元の宗教を冷静に評価して人々に道元を理解させるというのではなくて、「自分の好きな禅」「道元を奉じた格好の自分の新興宗教」を語っている。
そうした過程の昭和の一時期、学究派と実践派とが、激しい論争をした。
 忽滑谷快天氏が駒沢大学の関係者を主とする学究者を多く列ね、原田祖岳師が師家を中心とする禅僧(実参者)を多く列ねた。
 学究派は、宗意上の主要な問題が学問によって解明し得るとする立場で、原田派は、実参実究によらなければ正しく把握することはできないとする立場で、論争した、とされている。

 昭和の「正信論争」について、別の記事のように、佐橋法龍氏は、意外な評価をくだしている。そして、佐橋氏によれば、教理上では、原田派がたたかれているというが、これに疑問が出てきた。後世の研究者が、昭和正信論争を研究、評価する場合には、当時の論文を集大成したといわれる森大器氏の『曹洞宗安心問題論纂』(以下『論纂』と略す)を参照する。しかし、森大器氏の『論纂』は、編集方針に偏りがあり、原田派の重要な論文が治められていないという。竹林史博氏の最近の指摘である。

論文編集に偏りがある

 駒沢大学の忽滑谷快天氏と原田祖岳氏を中心に論争された「昭和正信論争」をまとめた資料として森大器氏によって、論争の関係した両派の論文を収録した『論纂』が発行された。従来、それはどちらの派にもかたよらず、公平・中立的な立場で編集されたとされてきた。しかし、竹林氏は、忽滑谷派に有利、原田派に不利な形で編集されている、とされた。
 論争に参加した一人、今成覚禅師が、この『論纂』について、偏った編集であったと述懐していることを竹林氏が紹介している。  竹林氏は、当時の雑誌数点を調査して、収録されなかった論文数を調査した。その結論部分を引用する。  佐橋法龍氏は、『論纂』を参照して、正信論争を評価されたのだろうが、このような事情がわかれば、佐橋氏も別な評価をしたかもしれない。

(注)
(大田評)
 情報隠し、自分に都合のよい資料選択などを学者側が行ったのだろうか。人は弱い。人は「煩悩」に汚染されると人を苦しめ過ちを犯すと仏教で教えるとおりである。学問の周辺にも偏見や権威に有利な経済力、政治力が働くようだ。人は、自分の好み・地位・名誉、経済的利益を優先させるものである。
 編集方針の偏りは多い。今でも、出版は、似たような状況にあって、組織側、体制側、権力側、学者側に有利になっており、言論の自由は弱者や実践派の僧侶にはなく、実際上は、制限されている。
 不況により、出版の状況もさらに厳しくなっており、内容はどうでも、数多く売れれば出版社の利益になる。一定数、売れそうな立場にある著者の本しか出版社が引き受けない傾向は一層強まっているだろう。学生や末端の僧侶、信者、社会人は、偏った情報しか、提供されていない。竹林氏は、偏った編集方針によって書物が学者側に有利な形で発行された歴史を発掘している。
 一部の者の利益を優先して、社会の多数の利益を損なうことが行われることは歴史上、どの組織にも、しばしばみられる。我利優先、偏見があれば、学者であっても、社会の利益に反する過ちを犯すであろう。学問の歴史で何が行なわれてきたか、学ぶ必要がある。歴史に学び、社会を害することを繰り返さないような社会が実現してほしい。学問、仏教関連の周辺から、自浄されない限り、他の分野、組織に、望むことは難しい。竹林氏の研究は注目される。

(9/05/2003>