「昭和の正信論争」
??? 禅は学問でわかるか ???
学問が発展しないのは、禅僧のせい?=佐橋法龍氏
禅の学者は、明治以来、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、という。わかりやすく言えば、道元の宗教を冷静に評価して人々に道元を理解させるというのではなくて、「自分の好きな禅」「道元を奉じた格好の自分の新興宗教」を語っている。
そうした過程の昭和の一時期、学究派と実践派とが、激しい論争をした。
忽滑谷快天氏が駒沢大学の関係者を主とする学究者を多く列ね、原田祖岳師が師家を中心とする禅僧(実参者)を多く列ねた。
学究派は、宗意上の主要な問題が学問によって解明し得るとする立場で、原田派は、実参実究によらなければ正しく把握することはできないとする立場で、論争した、とされている。
正信論争
佐橋法龍氏は、論争の発端を次のようにいう。
「所謂「正信論争」というのは、昭和三年の秋に忽滑谷快天博士(当時駒沢大学学長)が、曹洞教会の機関誌「星華」創刊号に掲載した論文「正信」に対して、原田祖岳師(当時曹洞宗師家、元曹洞宗大学教授)が、雑誌「公正」に「須らく獅虫を駆除すべし」と題する反駁論文を掲載したことに、端を発した事件である。その際、忽滑谷博士は、原田師の言があまりにも無軌道な、罵言にみちたものであったため、以後相手にならなかったのであるが、問題は博士をはなれて、博士を支持する一派と原田師およびその一派とに分かれて、激しい論争が年を越してまで継続され、これに中立と称する人々までが多く介入して、まことに華々しい事態にまで発展したのである。」(1)
「獅虫」とは「獅子身中の虫」であり、「仏の弟子でありながら仏法に害をなすものの意。その組織の内部からわざわいを起こすもの。」(2)である。
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、337頁。
- (2)新明解国語辞典、三省堂。
論争に参加した人々
佐橋氏、竹林史博氏によれば、次の諸氏が論争に参加した(1)。(現在、とは、佐橋氏の脱稿の時点)
- 忽滑谷派
- 井上耕哉(当時駒沢大学助手)
- 大久保道舟(当時駒沢大学助教授・東京大学史料編纂官補・現在文学博士)
- 渡辺画仙
- 増永霊鳳(現在駒沢大学教授・文学博士)
- 米本堅瑞(当時駒沢大学図書館司書)
- 榑林皓堂(当時駒沢大学助教授・現在教授・文学博士)
- 保坂玉泉(現在駒沢大学長・文学博士)
- 飯坂円収
- 下平楠堂
- 荒木正胤
- 大沢良光
- 原田派
- 今成覚禅(当時布教師)
- 井上義光
- 藤本隣道(当時大広寺講師)
- 小堂信龍
- 長沢祖禅
- 鈴木梅渓
- 井上義衍
- 瀬戸道印
- 松村智泉
- 細川悟蔭
- 佐々木指月
- 中立派
- 来馬啄道(現在曹洞宗師家)
- 中根環堂(現在鶴見女子短期大学長、ドクトルオブフィロソフィ・元駒沢大学長)
- 栗山泰音(大本山総持寺貫主)
- 足羽雪艇(大本山永平寺後堂)
- 津田邦梁(当時青松寺講師)
- 荒木無文
- 角張月峰(当時妙心寺派教学部長)
(注)
- (1)佐橋法龍、前掲書、337頁。竹林史博「昭和正信論争の新資料」(「宗学研究」第39号、曹洞宗宗学研究所、1997年)、222頁。
論争の時期
竹林史博氏によれば、論争の時期は、三期に分類できる。
「次の三期に分類できそうである。
第一期・昭和三年九月ー四年二月
・この間の主要論文を集めた「曹洞宗安心問題論纂」の発刊で、論争の内容が広く知られることとなった。その後、原本の入手が困難なこともあり、森大器氏により再編集されたこの本をもって「正信論争」全体が論じられてきたようである。
第二期・昭和四年三月ー五年七月
・木村泰賢博士の忽滑谷快天、金子大栄両博士批判の講演が活字となり、金子博士の反論、木村博士の再反論が注目をあび、論争が忽滑谷派対原田派という枠をこえて拡大した。また木村博士逝去にともなう忽滑谷博士の追悼記事が反響を呼び、論争が再燃した。
第三期・昭和五年八月ー昭和十年十月
・「正信論争」にともない出版された今成覚禅著「正しき信仰」、安谷衡量著「正信問答照魔鏡」を中心に昭和七年まで論争が続いた。その後は種々の問題の中で「正信論争」が引き合いに出され、論じられた。」(1)
(注)
- (1)竹林史博「昭和正信論争の新資料」(「宗学研究」第39号、曹洞宗宗学研究所、1997年)、224頁。
論争の本質
論争の本質はどこにあったのか、佐橋法龍氏はこういう。
「「正信論争」は、対立した両派のこの顔ぶれからみてもわかるように、「正信」という宗意上の一問題に関する、単なる見解の相違に本質があるのではなく、忽滑谷派が駒沢大学の関係者を主とする学究者を多く列ね、原田派が師家を中心とする禅僧(実参者)を多く列ねているということ、即ち、宗意上の主要なる問題が学術によって解明し得るとする立場と、実参実究によらざれば到底正しく把握することはできないとする立場との相剋に、問題の本質はあるようである。」(1)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、338頁。
原田師側の主張
原田師側の主張は「禅の宗旨は参究し大悟してはじめて把握されるもの」ということである。筆者(大田)から見れば、道元が「文字の法師の知るべきにあらず」という主張に近いように見える。
「原田師の主張は、要するに、禅の宗旨は参究し大悟してはじめて把握されるもので、実行実観の経験のない文学博士の如きは、単なる常識宗、科学の一部宗の信徒にすぎない、というのである。そしてこのような、禅の宗旨を云々する資格をもたない博士が、宗旨の機微を、それも権威あるべき教会誌の創刊号で論じているのを非難するというところに、師の主張のすべてが存したのである。
原田師以外の原田派の主張もまた、殆ど同じである。たとえば(以下略)」(1)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、340頁。
忽滑谷派側の主張
これに対して、忽滑谷氏を中心とする学究派は教理から原田師側をたたいたというが、「実参実究」という点には、痛烈な打撃を与え得ないでいる、という。
「要するに原田派の主張は、「実参実究しなければ禅の宗旨は明らめ得ない」というところに唯一の拠点が存するのみで、藤本師が、「気勢は確かに忽滑谷先生応援者に盛んである」と自認しているように、具体的な教理問題では全く完膚なきまでに原田派は叩かれている。それだけにまた原田派の防禦は、「実参実究」という体験の牙城に固く拠っているのであるが、忽滑谷派も流石にこの点になると痛烈な打撃を与え得ないで逡巡している。僅かに大久保道舟博士のみが、
原田氏は悟道ということに対して、或る一定の限界を認められているようである。即ち「大悟しなければ云々」といわれることは、大悟なる極限があることになる。しかも原田氏自身はこの大悟に到達したように思っておられる。しかしそれは多くの禅者の陥り易い誤りであって、悟道には決して限界はない。(「原田祖岳師の獅虫亡宗の両論を読みて敢えてその所信を問う」)」
と主張して、原田師の禅的体験に批判の一矢を放っているが、他は殆ど戦術的考慮からか原田派の体験至上主義の批判を避けている。このことは、増永霊鳳博士が忽滑谷博士にも実参実究の体験のあることを主張している点とも考えあわせると、忽滑谷派は暗に体験に乏しい点を自派の弱点として認めているといえるのではなかろうか。そして実は、ここにこの「正信論争」の本質を解明する一つの鍵があるように、私は考えるのである。」(1)
ところで、佐橋氏によれば、教理上では、原田派がたたかれているというが、これに疑問が出てきた。森大器氏の論纂は、編集方針に偏りがあり、原田派の論文に漏れがあるという、竹林史博氏の最近の研究がある。別の記事で概要を紹介する。
また、大久保氏の原田派への「悟道」観についての批判は、中国禅や、道元の禅や、臨済禅の「悟道」観を理解して批判しているのではなくて、大久保氏の「信仰的」(独自の)な悟道解釈になっていて、原田派への正しい批判にはなっていない。こういう誤解による言葉のもてあそびのごとき否定が学問なのであれば、原田派が学問を批判するのもやむを得ないところもあるであろう。大久保氏の批判があたらないことは「反対意見」のところに述べる。
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、341頁。
論争の評価
昭和の「正信論争」は何だったのか。それについて、佐橋氏などの評価は、別のとおり、学究派に同情的である。実参実究派が、宗学者を圧迫して、学問の発展と妨げるというのである。実参実究者が学問を妨げる悪者になっている。
こういう論書に対する疑問が、竹林史博氏によって、新たに発掘されている。また、私も、これまでの評価について、疑問を持つ。別の通りである。