「正信論争」以前=客観的でなく自己の信仰を学問とした
??? 疑問の説(1)=自分の「信仰」を学問と称する ???
批判1=明治末の代表的研究者の学問は自己の「信仰的独白」=佐橋法龍氏
学者は、明治以来、禅や仏教の学問研究を、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、という。その手法が、現代まで変らない、という。曹洞宗の僧侶、佐橋法龍氏からの批判である。
忽滑谷快天氏
佐橋法龍氏の論文で曹洞宗の宗学を顧みる。明治時代の宗学は低調で、江戸時代的宗乗の相承に終始していた。明治後期になって、忽滑谷快天氏、岡田宜法氏、泰音禅師が宗学に近代的な経験科学的手法を導入しようとした。大正2年に駒沢に移った曹洞宗大学が、14年に大学令による駒沢大学として文部省の認可を受けた。本格的学術論文と称すべきものは、忽滑谷快天博士に始まる。博士には「禅学新論」(明治37年)や、学位請求論文となった「禅学思想史」(上巻・大正12年、下巻・同14年)がある(1)。
「信仰的独白」の域を出ていない
忽滑谷快天氏は、後に駒沢大学の学長となったが、博士の業績は、ようやく勃興した近代的な学術論文として、注目される。ところが、「禅学新論」は「信仰的独白」の域を出ないと佐橋法龍氏によって批判される。
「博士の所論は、合理的批判的な無前提の経験科学的手法と、護教的信仰的な一大前提をもつ宗乗の手法とを適当に伴用しているとはいえ、要するに二つの手法の混合したものであり、結果的には「信仰的独白」としての江戸時代的な宗乗の域を何程も出ていないものである。これでは年一年と科学的思惟に対する信頼の度を深めつつあった一般社会に対して、宗学の使命とする護教という一大目標がどの程度推進せられたか疑わしい。事実、博士のこうした不徹底な態度は、やがて宗門内部からも強い批判を浴びることとなるのである。」(2)
「信仰的感情」による論・自宗賛美と他宗軽侮の説
忽滑谷博士は、大正末期に「禅学思想史」を著し、それは「宗学史上、極めて大きな地位を占めるもので」(3)当時は大いに注目された。しかし、佐橋氏は、次のように批判する。六祖までの古い禅をよしとすること、禅機を嫌悪すること、臨済宗よりも曹洞宗を高く評価するなどの偏よった見方が指摘されている。結局、実際に存在した禅を歴史的・客観的に解明・評価する態度ではなく、博士の好む禅、主観的見方の色が濃い「信仰的独白」の性格になっているという。
「次のような理由から博士が冷静であるべき客観的判断を失った説といわねばならない。その理由というのは、
(1)達摩の時代およびそれに近い時代のみを尊しとする信仰的感情
(2)六祖滅後から唐末五代に至る間の禅門で珍重された禅機・機関を、禅の病弊なりとして嫌う感情
の二点である。勿論、この外にも、博士の時代の研究的水準が、禅宗の源流ともいうべき達摩を完全な意味における禅宗の開祖と承認していたという、同情すべき点もないではないが、とにかく、「禅学思想史」によっても、清規をはじめとする所謂の禅宗を構成する諸要目素の殆どの形成されたのが、明らかに六祖の示寂から唐末五代にかけての時代であるにもかかわらず、この「純禅の代」とも称すべき禅宗成立の時代を、病弊にみちた悲しむべき面の多い時代として不当に評しているのは、要するに博士の個人的な信仰信念に原因している。
このことはまた、同じ機関でありながら、曹洞系の禅僧のものであれば称揚し、臨済系の僧のものであれば貶するという、穏当を欠く態度にもあらわれている。即ち博士は、洞山(良价・807−869)の創唱した機関である五位説については、「价が婆心に出づ」るものとして肯定し、臨済(義玄・*−867)の三玄・三要・四料揀等は、「後世此等の葛藤を認めて義玄が宗風と為すあり、一@(‘@は大笑の意・筆者)を発すべきのみ」と評している。更には、「顛狂の発作の如」き禅機をみな馬祖(道一・707−786)に淵源するとし、禅機といえば直ちに「達摩以来未だあらざる所」の禅病禅弊と断じ去っている。このように、両博士の論文は、学術研究としての性格を一段と強めながらも、なお一方では依然として「信仰的独白」としての、江戸時代的性格の混入を許しているのである。」(4)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、325-326頁。
- (2)同上、318頁。
- (3)同上、326頁。
- (4)同上、329頁。@=口へんに虜の中の男の代わりに豕。
岡田宜法氏
岡田宜法博士は明治42年に「禅学綱要」を著した。しかし、これも、佐橋氏は「信仰的独白」に留まると批判する。
「このようなことは、また岡田宜法博士の「禅学綱要」についてもいえる。これは禅宗の歴史および教理の概略を、曹洞禅に焦点を求めながら、組織的体系的に論述したものであるが、立論の態度は忽滑谷博士のそれをうけたもので、宗教としての禅と学術との次元・使命等の相違を説きながら、同時に比較すべからざるこの両者を比較して、禅の卓越性を強調するあまり、学術的手法の導入をはかりながら、これまた結局は「信仰的独白」としての宗乗の域に留まっている。」(1)
こうした学者自身の己れの好む禅、信仰による解釈・評価を学問として主張するので、果然、そのようなものは実際の禅とは違うと、実践者から激しい反撥が予想されるのは当然である。こうして、昭和4年、学者と実践者が激しく対決する「正信論争」が起こった。
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、318頁。