「正信論争」以後=依然として自己の信仰を宗学とする
??? 疑問の説(1)=自分の「信仰的独白」を学問とする ???
批判2=「正信論争」以後も変らず「「信仰的独白」
宗門の学者は、明治以来、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、という。その手法が、昭和の「正信論争」以後も、現代まで変らない、という。曹洞宗の僧侶、佐橋法龍氏からの批判の続きである。
その後も変らず「信仰独白」
「正信論争」は昭和十年ころに、ほとんど終わったが、佐橋法龍氏によれば、その後の宗学研究においても、客観的な学は進展せず、「信仰的独白」としての宗学に後退した状況が続いた。
衛藤即応氏への批判
衛藤即応博士は、「正信論争」には直接は加わっていないが、その最中に、論文を発表して、宗学も純学術的態度方法をもって研究すべきことを力説した。
「博士が昭和四年の日本仏教学協会の大会で発表した論文「仏教の宗教学的研究に就て」は、仏教に関する宗教学的研究の必要を説くとともに、宗学も純学術的態度方法をもって研究すべきことを力説した、注目すべき論文である。」(1)
「即ち博士は、教権に抑圧されて安価な妥協をするが如き宗学は、結局、仏教の本質的生命にふれることはできない、として、新たなる宗学がまずは伝統的宗乗の域から大きく脱皮する必要のあることを説いている。(中略)
そして博士は、このような立場から、まず各宗の宗義を伝統の堂奥から開放し、自由な批判的研究の対象となすべきであるといい、結論的には、こうした純客観的な立場から宗乗を検討して宗乗の宗教的意義を究め、仏教自体の一般宗教としての意義と価値とを発揮し、文化現象としての宗教そのものの研究に資せんとするところに、将来の宗学の方針がなくてはならないと論じている。」(2)
このように、崇高な研究態度が表明されたのであるが、現実には、博士に何があったのか、その研究結果は、博士のこの崇高な研究態度とは違って、主観的な意味の濃い「信仰的独白」としての宗学に後退してしまっている。佐橋法龍氏は、次のように、衛藤即応氏を批判する。
「しかしながら、博士のこの見解は、宗学の宗教学的研究が果して宗学の護教的使命を全うできるか、できるとするならばその方策は如何、という点についての、深いそして具体的な考察に欠けているが故に、その後の宗学研究者の継承するところとはならなかったのである。博士が、伝統と教権を犯すという危険を宗学に要求するならば、博士自らの手で、それの可能であることを具体的な宗学の研究を通して立証せねばならない。そうでなければ、博士の斬新な見解も所詮は猫の首に鈴をつけようとする鼠たちの空しい提案に類するものに外ならない。博士のこの見解が、その後の宗学研究における一つのあり方にまで発展しなかったのは、要するにその見解に、宗学的なあり方と護教的なあり方との調和に関する具体的な考察を欠いていたからである。」
「加之、博士自身、如何なる理由によってこうした見解を放棄したものか、後に公にした「宗祖としての道元禅師」(博士の学位請求論文・昭和十九年刊)の随処にみられるように、「信仰的独白」としての宗学に後退してしまっているのである。」(3)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、330頁。
- (2)同上、331頁。
- (3)同上、332頁。
榑林皓堂氏への批判
和辻哲郎氏、宇井伯寿氏、秋山範二氏、田辺元氏など宗門外の学者における道元研究が発表された。これらは、曹洞宗の宗学的立場を些かも顧慮しないものである(1)。それに対して、榑林皓堂氏などが、曹洞宗の立場から研究したが、
「感情的ともいい得る反撥を示すのみ」で、純学術的立場に立つ業績とはいえない、と佐橋法龍氏は批判する。
「宇井博士が極めてすぐれた三部の「禅宗史研究」を公表されてからは、この三部の「禅宗史研究」とそこに示された博士の方法論とが、以後の禅宗史学および禅学の性格を規定したのである。その性格とは批判的経験科学としての、宗学的立場を些かも顧慮しない禅宗史学および禅学であるということである。そしてこのような性格が、また曹洞宗における禅宗史学および禅学を支配するに至ったのである。勿論、こうした道元研究・禅宗史学・禅学への反撥が、曹洞宗内に存しなかったというのではない。岡田・衛藤両博士の「正法眼蔵思想大系」「宗祖としての道元禅師」など、明らかにそれであるといえるし、伝燈的宗乗の立場に立つ榑林皓堂博士もそれであろう。しかし、こうした人々も、結局は、和辻・秋山・田辺・宇井の諸氏、及びそれにしたがう人々の業績に、感情的ともいい得る反撥を示すのみで、純学術的立場に立つ業績を内包する、新しい宗学のあり方には些かも具体的な方策を示していないのである。宗学が、今日沈滞しきっている所以である。」(2)
こうして、「宗学が、今日沈滞しきっている」とされる。
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、333頁参照。
- (2)同上、334頁。
(4/21/2003、大田)