「正信論争」への評価=佐橋法龍氏
??? 実践派が学問に圧迫を加えた ???
昭和の「正信論争」について、佐橋法龍氏は、意外な評価をくだしている。
学者を圧迫するので、学問が停滞する?
実参実究派と学究派とに分かれて論争したが、結局、両派とも、禅の解明には、実参実究が必要であることを認めた格好になっている、とする。
この論争で現れた問題は、二つある、とする。
「即ち、この論争は、一見したところ、禅を学術的研究のみで理解把握しようとする立場(研究肯定派)と、あくまでも実参実究によらねば禅は分からないとする立場(研究否定派)との相剋のように考えられるのであるが、しかし仔細に検討してみると必ずしもそうではない。忽滑谷派の殆どが原田派の体験至上主義に何等のみるべき批判・攻撃をしていないということは、少なくとも忽滑谷派が、禅の研究に参禅が不可欠の要件である、という一事を消極的に肯定したことにならざるを得ない。したがってこの論争は、その性格を本質的に異にする二派の論争というよりも、両派は単に現象的な相違をもっていたにすぎないといえるのである。そしてこの論争に現われた二つの問題、即ち実参実究を誇る禅者の不当なる学者への非難圧迫と、それを不当なものともせずに、禅学の研究に参禅を必須の条件として認める宗乗の立場を、依然として脱し得ていない宗学者の態度、この二点が当時の宗学はもとより、以後今日に至るまでの宗学研究における大きな障碍となっているのである。」(1)
学問が停滞するのを、宗学者の「信仰的独白」におちるような心の弱さ、怠慢などの、責任とせず、実参実究者からの圧迫として、他に責任転嫁しているのであるが、これは意外な論理である。「不毛の議論」である。佐橋氏は、別の個所にもこう言っているので、本気にそう考えているのである。
「禅僧達が学としての禅学を敵視し憎悪するのは、彼等が学としての禅学の本質に無智であることに由来する。禅学は、学問であるかぎり、禅についての真実は教える。しかし、それは決して禅の実践ではない。真実は、事実の分析と綜合、帰納と演繹とによって得られる単なる認識であるのであるが、ここのところに昧い禅僧達が、禅学者をあたかも禅の実践家であるかのように独り合点して、おのれの領域を犯されるかのような恐怖ないしは嫉妬の情を抱き、そうした劣情を正当化するために、禅学者を攻撃するのである。憐れむべき心情というべきであろう。
このように、実参の経歴を誇る禅僧達が、ただそれだけの理由で、学者の禅研究の不可能なことを主張するのは、およそ当を得ないことであるばかりでなく、禅僧の自殺的行為であるのであるが、宗学の歴史には、こうした禅僧による宗学への不当な非難圧迫の事実で少なからず存するのである。これは明らかに宗学の発達を妨げている一つの大きな要因ではあるが、同時にこの問題には、宗学者の側にも責めらるべき欠陥がある。それは、宗学者が、禅僧達の非難圧迫の不当なることを指摘して、彼等に反省をうながそうとしないことである。私は宇井博士以外に、学者としての毅然たる態度は見たことがない。ここに宗学として大いに反省しなければならない問題の一つが存する。試みにこの問題を、「正信論争」とよばれる昭和初期の論争事件を中心として、具体的に考察してみよう。」(2)
この論争で現れた問題は、二つある、とする。
- 実参実究を主張する実践派が、学者に不当に圧迫を加えたものであり、これが宗学の発展を妨げると評価する。
- 禅の研究に参禅が不可欠の要件である、という事を学者側が消極的に肯定したことになっている。これが宗学の発展を妨げると評価する。
だが、この評価は奇妙である。別に述べるとおりである。
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、342頁。
- (2)同上、336-337頁。