宗門の学者に三つの危険が

 昭和の宗学という学問の世界でありながら、己れの「信仰的独白」に落ちた学者が多いと指摘する佐橋法龍氏が、宗門に属する学者(僧侶であり、かつ、学問の研究をする人)には、三つの危険がある、という。なお、宗門に所属する学者ばかりではなく、僧侶でなくても、宗門に接近した立場にあって、人的関係、経済的関係が強くて、何らかの利益が得られると感じている学者でも同じような危険があるであろう。

宗門の学者の弱さ・危険

 学者も人間であるから、心の弱さ、みにくい側面もある。学問にそれが影響される危険がある。
 学問の発展を妨げるものとして、佐橋氏は、次のようなことを指摘していた。「正信論争」以後の展開を見ると、依然として、悟道否定が続き、坐禅否定の説まで出てきた。むしろ、実参実究者の主張とは反対の説がはなばなしく展開して、実参実究者を否定、排斥している。学問は実参実究者からは圧迫されていない。にもかかわらず、外部の研究者からは、独断・偏見、「不毛の議論」といわれる学説が多く発表されて、学問が停滞している。外部では着実に仏教の真相が偏見少なく学問的に解明されてきた部分もある。とすれば、曹洞宗学の停滞は、実参実究者からの圧迫によるものではなさそうである。では、何が、学問の発展をさまたげるのか。佐橋氏が指摘した三つの危険を思いうかべる。実際、これらが学問をさまたげてきたという。  佐橋氏があげる三つの危険は、次のとおりである。

第一、信仰の絶対性を宗学の手で破壊する危惧


(注)

第二、長老達の反感憎悪


(注)

第三、宗門当局の忌諱にふれて、相当の制裁をうけることを恐れる


(注)

学者はこの危険をおそれるな

 この三つの危険は、おそれる必要はなく、「宗学者自身に宗門的信仰への正しい認識と、とるべき十分な学術的態度とに欠けているところにあるのではないか」と指摘した。  佐橋氏は、これらの三つの危険を恐れる必要はないと力強く訴えられたが、それまでの学問は「低迷をつづけている」。この三つの危険は、相当に強いものであった。  佐橋氏は、宗門の信仰は絶対であり、道元と螢山は絶対である、という前提であった。(実は、その後、これさえも否定する方向の宗学=批判宗学=が起こった。)
(注)

佐橋氏の期待とは違う方向に展開

 ところが、佐橋氏の思わぬ方向へ展開した。佐橋氏は、坐禅の道元禅師が絶対であった。ところが、坐禅は仏教ではない、道元も過ちを犯した。道元を絶対視するべきではない、とする「批判宗学」が強く主張された。それによって、従来の「伝統宗学」は完全に否定され、十分な反論ができないでいる。
 「伝統宗学」は道元禅師その人の精神を尊重せず、江戸時代の宗学の解釈、制度を尊重した。和辻哲郎が「道元は殺されている」といった。それでも、伝統宗学までは、道元を立てていた。しかし、批判宗学は、道元さえも否定した。もはや、信仰すべきもの、頼るべきものは、道元禅師の教えではなくなった。「批判宗学」の主張からいえば、信じて尊重すべきものは、初期仏教経典、特に、「十二縁起説」のみであり、批判宗学者の知性による解釈であることになるが、大いなる疑問である。それはもはや宗教ではなく、学問であり、しかも、外部からは、偏見とされる。
 佐橋氏の次の言葉がまだ続いていることになる。
(注)
 なぜ、こんなことになるのか。佐橋法龍氏が指摘する危険が強いのか。さらに他の要因があるのか、あきらかにしなければならない。学問における内部混乱が続く限り、社会の人々が「道元」を受け入れるはずがない。宗教への関心が急速に薄れていっている日本において、仏教、道元の学問が、こんな状態では、なお一層、国民は、離れていくであろう。仏教と道元禅師の真意をもう一度、個人我、学者我、宗門我を抜きに研究していくしか、仏教と道元禅師の復活はないであろう。
(4/08/2003,大田)