宗門の学者に三つの危険が
昭和の宗学という学問の世界でありながら、己れの「信仰的独白」に落ちた学者が多いと指摘する佐橋法龍氏が、宗門に属する学者(僧侶であり、かつ、学問の研究をする人)には、三つの危険がある、という。なお、宗門に所属する学者ばかりではなく、僧侶でなくても、宗門に接近した立場にあって、人的関係、経済的関係が強くて、何らかの利益が得られると感じている学者でも同じような危険があるであろう。
宗門の学者の弱さ・危険
学者も人間であるから、心の弱さ、みにくい側面もある。学問にそれが影響される危険がある。
学問の発展を妨げるものとして、佐橋氏は、次のようなことを指摘していた。「正信論争」以後の展開を見ると、依然として、悟道否定が続き、坐禅否定の説まで出てきた。むしろ、実参実究者の主張とは反対の説がはなばなしく展開して、実参実究者を否定、排斥している。学問は実参実究者からは圧迫されていない。にもかかわらず、外部の研究者からは、独断・偏見、「不毛の議論」といわれる学説が多く発表されて、学問が停滞している。外部では着実に仏教の真相が偏見少なく学問的に解明されてきた部分もある。とすれば、曹洞宗学の停滞は、実参実究者からの圧迫によるものではなさそうである。では、何が、学問の発展をさまたげるのか。佐橋氏が指摘した三つの危険を思いうかべる。実際、これらが学問をさまたげてきたという。
佐橋氏があげる三つの危険は、次のとおりである。
第一、信仰の絶対性を宗学の手で破壊する危惧
「因みに、その危険というのは、次のような三つのことがらであるといえよう。その第一は、宗学に経験科学的な手法を十分に導入するということは、十九世紀のドイツ観念論神学のたどった神学の破壊否定という方向に、宗学自体をも追い込んでしまうのではあるまいかという危惧の存することである。(中略)
神学に経験科学的手法を導入することは、いわば信仰と理性との調和をはかるものである。これは信仰の盲目的な是認ではなく、信仰を合理化し、盲目的信仰を批判することであるが、この合理化・批判は、神学においては常に一定の限界の中に留まらねばならない。そうでなければ、神学の合理化はやがて信仰の絶対性を神学自らの手で破壊することにならざるを得ない。ドイツの観念論神学の歩みは、神学におけるそうした合理化の限界をはっきりと示したものであるが、同時にこれは、宗学の合理化にも亦、一つの限界の存することを暗示しているともいえるのである。ここに宗学者の多くが、宗学に経験科学的な合理的批判的手法を導入することに、危険を予想する理由が存するのである。」(1)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、309頁。
第二、長老達の反感憎悪
「第二の危険は、宗学者の学説が、伝燈的宗乗を奉ずる長老達の見解と対立し、ひいては長老達の反感憎悪を誘発するに至るであろうということである。長老達の見解の殆どは、具体的な解説を極端に嫌う禅の伝燈的な指導教授の方法によって、長い歴史の間に大きくゆがめられたものを相承しているだけに、学問的研究の結果とは異なるものが多い。長老の反感憎悪は、今日こそ些かやわらいだとはいえ、宗学者が同時に宗門の僧侶の一員として生活する以上、その生活の公私の両面にわたって強い影響を与える。これは宗学者の研究活動に著しい制約を加えて、宗学の発達をはばむ大きな障碍の一つとなっているのである。」(1)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、310頁。
第三、宗門当局の忌諱にふれて、相当の制裁をうけることを恐れる
「第三の危険は、宗学者の研究成果が時に宗門当局の忌諱にふれて、相当の制裁をうける懼れがあるということである。これは必ずしも宗学の研究が合理的批判的方向に走った場合にのみ考えられる危険ではなく、宗学がたとえ護教的没批判的な立場をとっても、その成果が宗門当局の忌諱するところとなれば、「異安心」を説く異端の説として相当の制裁が加えられるのである。こうしたことは、伝燈的な信仰を絶対なものとして、宗団の運営と統制を維持してゆかねばならない宗門当局の立場からみるならば、一概に無理なことともいえないであろう。しかし、こうしたことが宗学者の新しい方向を開拓しようとする意欲を弱め、宗学の健全の発達を著しく妨げていることも事実といわなければならない。」(1)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、309頁。
学者はこの危険をおそれるな
この三つの危険は、おそれる必要はなく、「宗学者自身に宗門的信仰への正しい認識と、とるべき十分な学術的態度とに欠けているところにあるのではないか」と指摘した。
「毫も恐れる必要のないことである。却ってこれらの危険を恐れることの方が、宗学を萎縮せしめ、ひいては宗門の発達を妨げる大きな障碍となるであろう。
宗学は信仰を絶対とするものの学である。故に宗学者が宗門的信仰を絶対のものと信じ、また世の学問や良識がその信仰を支持し、受容しているかぎり、宗学が宗門的信仰を絶対なりとする一大前提を堅持したとしても、必ずしもそれは学術的に不穏当なこととはいえないのである。要は宗学が十分なる学術的手法によって、その一大前提の真実性を顕彰すればよいのであって、そこにまた宗学に課せられた大きな意義と使命とがあるのである。「宗学はおくれている」「前近代的だ」というような非難や、それに答えるかのような「宗学はむずかしい」などという、あたかも宗学には幾多のtabooがあるかのような宗学者の独白を聞いていると、宗学がおくれているとか、むずかしいと歎ぜしめるような原因は、実は宗学に幾多のtabooがあるためではなく、むしろ宗学者自身に宗門的信仰への正しい認識と、とるべき十分な学術的態度とに欠けているところにあるのではないか、と私は考える。」(1)
佐橋氏は、これらの三つの危険を恐れる必要はないと力強く訴えられたが、それまでの学問は「低迷をつづけている」。この三つの危険は、相当に強いものであった。
「要するに今日の宗学は定説といい得る定義すら確立されていない、未発達な状態にあるのである。現代の宗学がこのような状態の中に低迷をつづけているということについては、既に述べたように種々の事情が考えられる。就中、宗学の科学的研究において考えられる三つの危険は、明治以後の宗学の研究的な歩みを大きく妨げてきたといえるのである。しかしながら、こうした問題も、宗学がその使命とする護教について反省し、宗学を批判的経験科学の手法をもって貫くことが最も正しく護教の実をあげるものであるということを深く考察するならば、おのずから解決の方途が見出されてくるのではあるまいか。宗学を批判的経験科学として研究することは、宗門的信仰を絶対の真実とする研究上の一大前提を、あってなきものに等しい命題としてしまうものであるが、しかし、宗学における最も重大な問題は、そのような前提をもたねばならぬということではない。前提をもつと否とにかかわらず、要は社会一般の納得する方法によって正しく護教の実をあげることこそ、宗学に課せられた一大使命でなければならない。」(2)
佐橋氏は、宗門の信仰は絶対であり、道元と螢山は絶対である、という前提であった。(実は、その後、これさえも否定する方向の宗学=批判宗学=が起こった。)
「宗教を護教的神学の一種であるとして、ただ徒らに、宗学の学としての宿命的悲哀を歎くことは、決して正しいことではない。少なくとも今はその段階ではない。両祖(高祖道元と太祖螢山)の宗教は絶対である。この信仰を不動にものとして、安んじて宗学に経験科学的学術の手法を導入することによってのみ、宗学は健全なる発展への歩みをはじめ得るであろう。学としても、また宗門の宗教的な営みの一環として宗学は健全なる発展への歩みをはじめ得るであろう。学としても、また宗門の宗教的な営みの一環としても・・・・。」(3)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、311頁。
- (2)同上、343頁。
- (3)同上、312頁。
佐橋氏の期待とは違う方向に展開
ところが、佐橋氏の思わぬ方向へ展開した。佐橋氏は、坐禅の道元禅師が絶対であった。ところが、坐禅は仏教ではない、道元も過ちを犯した。道元を絶対視するべきではない、とする「批判宗学」が強く主張された。それによって、従来の「伝統宗学」は完全に否定され、十分な反論ができないでいる。
「伝統宗学」は道元禅師その人の精神を尊重せず、江戸時代の宗学の解釈、制度を尊重した。和辻哲郎が「道元は殺されている」といった。それでも、伝統宗学までは、道元を立てていた。しかし、批判宗学は、道元さえも否定した。もはや、信仰すべきもの、頼るべきものは、道元禅師の教えではなくなった。「批判宗学」の主張からいえば、信じて尊重すべきものは、初期仏教経典、特に、「十二縁起説」のみであり、批判宗学者の知性による解釈であることになるが、大いなる疑問である。それはもはや宗教ではなく、学問であり、しかも、外部からは、偏見とされる。
佐橋氏の次の言葉がまだ続いていることになる。
「要するに今日の宗学は定説といい得る定義すら確立されていない、未発達な状態にあるのである。」
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、343頁。
なぜ、こんなことになるのか。佐橋法龍氏が指摘する危険が強いのか。さらに他の要因があるのか、あきらかにしなければならない。学問における内部混乱が続く限り、社会の人々が「道元」を受け入れるはずがない。宗教への関心が急速に薄れていっている日本において、仏教、道元の学問が、こんな状態では、なお一層、国民は、離れていくであろう。仏教と道元禅師の真意をもう一度、個人我、学者我、宗門我を抜きに研究していくしか、仏教と道元禅師の復活はないであろう。
(4/08/2003,大田)