衛藤即応氏への批判

??? 疑問の説(1)=師に会った時に悟る ???
??? 疑問の説(2)=坐禅のみが目的 ???

批判=道元は、師に会うだけで悟る、とは言わない。道元は、衆生の苦からの解放、戒・定(坐禅)・慧・解脱・解脱知見を重視した。坐禅のみではない。


 衛藤即応氏の学説は、「信仰的独白」に落ちたと、佐橋法龍氏が批判した。どのようなところが、そうであるか、一例をみておく。
 道元は身心脱落という体験があったが、他に向かって仏法を説くときには、悟り不要と説いた。信じればよいと説いたという。また、衛藤氏は、道元自身の叱咤時脱落(悟道)を肯定して、その脱落してから回顧してみると、如浄に面授した時に大事了畢していたことに気づいたとする。
 (次が、「疑問の学説」に掲載したものです。コピーしています。反論は、下にあります。)

疑問の学説

 確かに、衛藤博士は、面授嗣法と、坐禅の仏法が道元の新しい展開であるという立場を固執されたようで、強引とも思える解釈、誤解などがある。博士自身のは、一つの立場に立たない宗学が必要であるという高邁な構想があったが、その後発表された論文を見ると、江戸時代に確立したという面授嗣法の思想をあくまでも絶対死守という護教的(教団組織の方針を守る)立場をとっておられる。佐橋氏がいうように、何か、学問の発展を妨げるものがあるのか。
 道元の著書の論旨を真摯に考察しようとせず、博士の「信仰的独白」あるいは、教団の方針に都合よくあわせた無理な解釈になっている例を、二、三あげておく。
如浄に初めて会った時に身心脱落し、新しい仏法を展開

 悟道ということはない、と主張する研究者が多いが、衛藤氏は、道元自身の悟道は肯定する。道元は身心脱落という体験があったが、日本に戻り仏法を説くときには、面授時嗣法という新しい仏法を説いたとする。衛藤氏は、道元自身の叱咤時脱落を認めて、その脱落してから回顧してみると、如浄に面授した時に大事了畢していたことに気づいたとする。「身心脱落は 修学の完成」とする。
 「面授」巻の言葉を根拠として、こういう。
(注)
正伝するのは坐禅のみ、行が目的
 道元は、三つの證をいうのであるが、衛藤即応氏は、第二の證のみをいう。いわゆる、ある時、第一、第二の證が事実であったことを證得する「證」を得よという道元の主張を言わず、「悟道」の必要性を強調したことを否定する。
 こういう説は、道元の著作、思想の全体を客観的に評価したとはいいがたく、衛藤氏の「信念」(あるいは、厳しくいえば「辺執見」)によって、道元の言葉のごく一部を選びとり、独自の(道元の意図をはみだして)解釈を付す手法である。江戸時代に採用した教団の解釈方針を合理化する。本来の仏教や、道元がいう「慧」の内容のある(自己のエゴイズムを捨棄し他者の苦悩を救済する「慧」を得る)真摯な修行が失われ形式的に一定時間、坐禅すればよいとする堕落した坐禅でも肯定される。
 徐々に学問における偏見が指摘されるようになった。組織の古い解釈を絶対死守するという護教的な立場からの解釈は、宗門の利益よりも社会の公的利益に立つべきであると考える僧侶、研究者からは、「学問的」とはいいがたく「信仰的独白」というべき解釈である。簡単な批判を、「反対意見」の項に記す。

(注)

批判=道元は、師に会うだけで悟る、とは言わない。道元は、衆生の苦からの解放、戒・定(坐禅)・慧・解脱・解脱知見を重視した。坐禅のみではない。

 以上が「疑問の学説」に掲載したものである。これに対し大田が簡単に批判する。証拠となる道元などの語は、ここには引用しない。HP「もう一つの仏教学・禅学」の「道元研究のデータ・ベース/資料」に分類して掲載しているから、容易に参照できると思う。
「新しい面授の仏法」説への批判
 上記の衛藤氏の文で、太字にした主張は、「面授の仏法が新たに生まれた」「面授の仏法が新たに生まれた」である。これは、道元の精神ではなくて、江戸時代の卍山、面山、および、衛藤氏の信仰である。理由は、次のとおりである。
「正伝するのは坐禅のみ、行が目的」説への批判
 正伝するのは坐禅のみ、行が目的である、という説へは、次の批判がある。  面授時脱落説は、平成になっても、杉尾玄有氏から強く主張されてきたが、その説への批判も、基本的に上記のとおりである。

 以上、衛藤即応氏への批判は、今は、簡単に上記の程度にとどめておく。今後、詳細に批判するであろう。要するに、衛藤氏の学問の方法は、先に「道元の仏法」について自己の好むもの(それは江戸時代の宗門の解釈を追認するもの)で狭く規定して、それに都合よく見える道元の言葉だけを取りあげて、根拠となるよう特殊な解釈を加えて、都合の悪い言葉を無視する方法に近い。このような方法は、精神医学、心理学では、病的な「認知のゆがみ」とされているものに類似する(参照:研究者のエゴ>認知のゆがみ)。学問としては、誠実な態度ではないように思われる。

(学問的な問題を離れて)
 このような方法は、宗派意識がなく、宗門の利益などということを考えもしなかった道元であり、衆生(当然に在家を含む)の利益ということを強調した道元ということを考えれば、とうてい受容される説ではない。道元を殺し、江戸時代の僧侶、昭和の僧侶を生かす説である。宗門は時代、環境、歴史、構成する人間に制約される。時代や人間に規定される組織としての宗門の利害と離れて、純粋に道元の真相を解明する学問とはいいがたい。その時々の宗門当局の力学により、宗門の解釈は変り得る。それを根拠づける宗学もありえようが、そういうものに左右されず、道元を解明する学問もあるべきである。
 面授・嗣法を間違いとか、廃止せよ、と言うのではない。それは、宗門の制度であり、自由である。組織上必要な制度であれば、当然存続させる自由がある。葬式関連の制度は道元にはなかったが、宗門にはある。同じようなものとして、僧侶だけに存続させればよい。しかし、道元が、面授・嗣法を説き、悟道を否定した、と学者がいうのは、ゆがみのある読み方である疑いがある。道元は、悟道したら必ず師に会い、点検して印可を受けよという。また、生きた師に会わないで嗣法はありえない、ともいう。師にあいさえすれば、すべての僧侶が悟りであり、嗣法である、ということは道元は絶対に主張していない。宗門には宗門の要請があって、違う解釈をしても、学問は曲解・粉飾すべきではない。学問的には「道元は、こういう」が、「道元はそういっても、宗門は、こういうふうに思想、制度に変えた」と学問は道元と宗門の解釈を明確に区別してほしい。そうでなければ、現実に苦悩する者は救われず、学問を、そして、そのような在家の苦悩を無視した宗教は信じないであろう。宗教として誠実ではなく、結局、衰亡するであろう。
 人は、今なすことで世界を、将来を変えていく力がある。学者は、宗門や日本の将来の鍵をにぎっているのである。ゆがんだ見方、粉飾した学問を社会に投げかけて日本をゆがんだ方向へ導くか、誠実に真相を解明した学問を社会に投げかけて、日本をよき方向に導くか、学者が日本を変える責任を持つ。影響の大きい仏教学者の言動で、宗門が変る。宗門が変れば、日本の宗教が変る。日本の宗教が変れば、日本の教育が、社会全体が変わる。
 学問は歴史的に必ず進展するであろう。偏見、粉飾のある仏教・禅の学問は将来必ず批判される。後世の眼のある学者を恐れるべきではないか。 (4/21/2003、大田)