「身心脱落」の意義=鈴木格禅氏
??? 杉尾玄有氏の道元は如浄に会った時に脱落したという説に反論 ???
杉尾玄有氏は、道元は如浄に会った時に身心脱落した、という説を強く主張している。その反論の論文の中で、鈴木格禅氏は、「身心脱落」の意義を次のように解釈している。
身心脱落の意義については、(A)「悟り体験」であるという説、(B)坐禅であるという説、(C)その他、がある。
鈴木氏は、(B)と同様であるが、「身心脱落」とは、如浄に相見した時だけのことをいうのではないという解釈である。面授時脱落説ではないが、身心脱落の意義を坐禅とする。「伝統宗学」は、面授時脱落説であるので、「伝統宗学」とも異なる。そして、見性体験のような悟りも肯定しない。
「身心脱落」の意義
「すでに述べたごとく「身心脱落」は、「いつ、どこで身心脱落した」という表現になじまない。「身心脱落」は、試行錯誤を伴い、これを繰り返しつつも不断に行じられ、たえず実践せらるべき仏法の、行証の実質についていうべきことであって、「年時日」を限定し、「場所」を特定して論ずべき事柄であるのではないように思う。もちろん、いずれの宗教においても、その宗教の真実に生きようと専念する者にとって、「回心」は不可欠の条件であり、「転依」はきわめて重大な意味をもつ。(中略)
しかしながら、「身心脱落」を「回心」と比況すべき心性的問題としてのみ重大に捉え、その「時日」の特定を、宝慶元年五月一日とし、これを「面授時脱落」とするのは、やはり適当を欠くように思われる。
「身心脱落」とは、自己存在の実相に直接する実践態度についての、宗教的言語表現であるということができるであろう。「おのれ」の身心、すなわち「自己存在」の全体は、「おのれ」の持ち物ではない。「自己存在」も、それを契機に派生し現象するところの「人生」と呼ばれるすべての出来事も、その実際は、「無常」と呼称せられる「ハタラキ」における「ひととき」の様相であるにすぎない。そのすべては、「われ」において所有せらるべき「実体」なのではない。それを直示するのが「身心脱落」という語である。これを逆にいえば、身心は本来「脱落」しているのである。自己存在が「無常」の事実であり、「ハタラキ」の一様相にすぎぬということは、「自己」を所有するものがないということである。(中略)
求めなければ得られず、求めたら誤るというこの絶対的矛盾を、そのまま許容すりものは何であるか。それは宗教的実践としての「只管打坐」であり、その「只管打坐」の内容を「身心脱落」と表現したのである。」(1)
「「身心脱落」を、一過性の心性的「悟り」と同一視し、これを常恒的に保任することが、「面授」の相続であると理解すれば、それは、人間および人間生活の抽象化であり観念化であるという譏(そし)りを免れえないであろう。
自己は「無常の事実」においてあるが、日常的自己は、「無常の事実」に背反する「自我」においてのみ成立しており、これを脱することはできない。かかる「自己生存」の絶対的矛盾に気づき、自己中心的にしか機能しえない生存の本来的傾向に汚染されない「われ」のあり方は、思弁や論理でhなく、実践によってしか具体的とはならない。その実践は、どこまでも「己を放つ」行証である。これを「只管打坐」といい、そのありようを「身心脱落」といったのである。かくて「身心脱落」は、心性的回心としての「証悟」ではなく、宗教的行証としての内容である。人は生きている限り、たえず「まこと」を行じつづけなければ、たちまち、元の自己中心的な「ものほしい」自己に、立ち帰ってしまう根本的傾向の真っ只中にある。
されば、自己の真実(身心脱落)を、不断に行証しつづけてゆくことが、道元の仏法における宗教的大事なのである。」(2)
結局、鈴木氏の解釈は、身心脱落とは、坐禅を行証してゆくことである。身心脱落の内容は、仏教でいう「無我説」である。
鈴木氏は、面授時脱落説に反対しているが、それは、坐禅が悟りというものは、一時点だけではなくて、継続的であるという意味で、面授時脱落説に反対するのである。いわゆる「悟りの体験」を認めない点では、「伝統宗学」と同様である。
(注)
- (1)奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年、219頁。
- (2)同上、222頁。
(大田評)
大乗唯識説は、悟りや修行を詳細に記述している。唯識では、無分別智を三つに分けている。加行無分別智、根本無分別智の證得、後得智である。坐禅をすれば無我を理解し、坐禅中には、言葉や行為による煩悩の発現はないので、「修行段階の無分別智」(加行無分別智)という。だが、鈴木氏が説明している無我、無常は、対象的に思惟しているものであり、その思惟する主体の「無我」の真相を証明したわけではない。坐禅しているのを対象的に観念している自己があり、無我の真相を証明したのではない。無我を理解し、信じているに過ぎない。
「根本無分別智」は、悟りの体験(*注1)である。禅僧で、悟りを強調する人(臨済、道元、白隠、良寛など)がいるが、その悟りは、「根本無分別智」であると考えられる。「後得智」は、根本無分別智を證得した後の有分別智である。苦悩する人を救済する智(種々の方便を用いる)もこれである。
鈴木氏は、「身心脱落」を、唯識の「加行無分別智」だけで解釈している。道元は、坐禅ばかりではなく、悟り、得法を強調している(*注2)ので、「根本無分別智」にあたるものを道元も強調している。中国禅僧の「ある時、ある場所での」悟りの体験を『正法眼蔵』の中で、数多く紹介している(*注3)。鈴木氏の解釈は、加行無分別智のみであり、鈴木氏の「信仰」である。道元の仏道とはいえない。大乗仏教では、無生法忍を得ると「不退転菩薩」になるというほど、非常に大きい出来事がある。鈴木氏は、こういうことをご存知ない。不退転菩薩になるような体験をしないと、やがて、坐禅をしなくなり、エゴイズムまみれとなり、他者(在家信者)の救済をしなくなり、仏教から実質上、退転するのである。だから、道元も得法、得道、悟りを重視した。
(*注)
(1)唯識の、悟りの体験は「真見道」とも呼ばれる。詳細は、HP「もう一つの仏教学・禅学」(第一部)に竹村牧男氏の研究を参照して紹介している。
(2)例えば、「礼拝得髄」巻。その他、昭和正信論争以来、多くの禅僧が指摘している。
(3)詳細は、HP「もう一つの仏教学・禅学」の道元研究のデータベース
(9/11/2003、大田)