「身心脱落」の意義=鈴木格禅氏

??? 杉尾玄有氏の道元は如浄に会った時に脱落したという説に反論 ???
 杉尾玄有氏は、道元は如浄に会った時に身心脱落した、という説を強く主張している。その反論の論文の中で、鈴木格禅氏は、「身心脱落」の意義を次のように解釈している。
 身心脱落の意義については、(A)「悟り体験」であるという説、(B)坐禅であるという説、(C)その他、がある。
 鈴木氏は、(B)と同様であるが、「身心脱落」とは、如浄に相見した時だけのことをいうのではないという解釈である。面授時脱落説ではないが、身心脱落の意義を坐禅とする。「伝統宗学」は、面授時脱落説であるので、「伝統宗学」とも異なる。そして、見性体験のような悟りも肯定しない。

「身心脱落」の意義

   結局、鈴木氏の解釈は、身心脱落とは、坐禅を行証してゆくことである。身心脱落の内容は、仏教でいう「無我説」である。
 鈴木氏は、面授時脱落説に反対しているが、それは、坐禅が悟りというものは、一時点だけではなくて、継続的であるという意味で、面授時脱落説に反対するのである。いわゆる「悟りの体験」を認めない点では、「伝統宗学」と同様である。

(注)
(大田評)
 大乗唯識説は、悟りや修行を詳細に記述している。唯識では、無分別智を三つに分けている。加行無分別智、根本無分別智の證得、後得智である。坐禅をすれば無我を理解し、坐禅中には、言葉や行為による煩悩の発現はないので、「修行段階の無分別智」(加行無分別智)という。だが、鈴木氏が説明している無我、無常は、対象的に思惟しているものであり、その思惟する主体の「無我」の真相を証明したわけではない。坐禅しているのを対象的に観念している自己があり、無我の真相を証明したのではない。無我を理解し、信じているに過ぎない。
 「根本無分別智」は、悟りの体験(*注1)である。禅僧で、悟りを強調する人(臨済、道元、白隠、良寛など)がいるが、その悟りは、「根本無分別智」であると考えられる。「後得智」は、根本無分別智を證得した後の有分別智である。苦悩する人を救済する智(種々の方便を用いる)もこれである。
 鈴木氏は、「身心脱落」を、唯識の「加行無分別智」だけで解釈している。道元は、坐禅ばかりではなく、悟り、得法を強調している(*注2)ので、「根本無分別智」にあたるものを道元も強調している。中国禅僧の「ある時、ある場所での」悟りの体験を『正法眼蔵』の中で、数多く紹介している(*注3)。鈴木氏の解釈は、加行無分別智のみであり、鈴木氏の「信仰」である。道元の仏道とはいえない。大乗仏教では、無生法忍を得ると「不退転菩薩」になるというほど、非常に大きい出来事がある。鈴木氏は、こういうことをご存知ない。不退転菩薩になるような体験をしないと、やがて、坐禅をしなくなり、エゴイズムまみれとなり、他者(在家信者)の救済をしなくなり、仏教から実質上、退転するのである。だから、道元も得法、得道、悟りを重視した。

(*注)
(1)唯識の、悟りの体験は「真見道」とも呼ばれる。詳細は、HP「もう一つの仏教学・禅学」(第一部)に竹村牧男氏の研究を参照して紹介している。
(2)例えば、「礼拝得髄」巻。その他、昭和正信論争以来、多くの禅僧が指摘している。
(3)詳細は、HP「もう一つの仏教学・禅学」の道元研究のデータベース

(9/11/2003、大田)