道元は「見性体験」のようなことは認めていない

??? 疑問の説=杉尾玄有氏=道元は如浄に会った時に脱落した ???
 杉尾玄有氏は、道元は如浄に会った時に身心脱落した、という説を強く主張する。

「叱咤時脱落」と「面授時脱落説」

 山口大学の杉尾玄有氏が、「叱咤時脱落」と「面授時脱落説」を名づけたとされる。「叱咤時脱落」の話は、道元の悟りの様子を記したもので、道元の古い伝記『行状記』などに記載されている。  以下は、手元に原文がないので、石井修道氏による要約で杉尾氏の主張を概観する。道元には、悟りがあるのか、身心脱落というが、その時期はいつだったのか。  これに対する賛同者の一人が石井修道氏である。しかし、反対説も多い。しかし、杉尾氏は、その主張を変更されることなく、1999年に「正伝の仏法/「バツ身心脱落の消滅以後」という奇妙な題の論文を発表された。悟りを激しく否定し、「叱咤時脱落」という名をつけたために、そういう事実があったかのように誤解された。この命名を抹殺したいという。
(注)
これに対する批判は、「反対意見」に掲載する。
(研究者の心理)
 杉尾説は、坐禅を重視しての前提であったが、松本史朗氏から、坐禅は仏道ではない、縁起のみが「正しい仏教である」、道元も過ちをおかしたという説が出てからは、身心脱落の時期など問題にならなくなってきた。
 ともあれ、杉尾氏の説のような面授時脱落のみが正しいというような道元の言葉は、管見によれば、少ない。むしろ、逆の言葉の方が多いということは、昭和正信論争以来、多くの禅僧たちが指摘してきた。しかし、その人たちは、実践者であり、研究者ではなくそれが無視され、研究者のあいだでは、悟りを否定する人たちが多かった。賛否半ばする状況であるといい、高崎直道氏、中世古祥道氏も面授時脱落説を認めないが、もし、そうだとすれば、「面授時脱落」の方がありえないこととなるが、杉尾氏は、その主張を変えることはなく、このように激しく自説が正しいという主張をされる。
 上記のように、道元にかかわる学問の世界は、昭和正信論争以来、臨済宗への対抗意識、自分の信念による学説を唯一正しいという(こういうことを仏教は批判するはずだが)自説絶対主義、根拠となる文の選択的抽出と自説に都合のよい解釈、あれか、これしかないという二元観、感情的論理づけ、批判説をとなえることに対する激しい感情がゆきかう世界であるように見える。若い人は、自由な学問ができるのだろうか心配になる。
(6/08/2003、大田)