沢木興道氏=坐禅が悟り
??? 疑問の説=坐禅が悟り ???
曹洞宗の著名な僧侶であった沢木興道氏(1880-1965)は、坐禅が悟りであり、悟りの体験などないと主張した。「伝統宗学」と同様である。
坐禅しても何にもならない
「坐禅は蓋しさう云ふ風なもので、人から何の為になるかと問はれたら、何にもならんと言はなければならん。唯私の言ふやうに正身端坐して背骨を伸ばし、鼻で呼吸して口をふたして眼を開いて、ウンと坐る、それを詩に作れば斯う云ふ気持ちである。要するに坐禅は自己に親しむものであり、自分になる法である。そして一切経は坐禅を文学に引伸ばしたものであります。」(1)
「然るに「坐禅すれば何になるのか」と直ぐ尋ねる者がある。私は「坐禅しても何にもならぬ」と答へてやる。そうすると、それつきり坐禅に来なくなる手合があるのですが、これは坐禅の対象を誤つてゐるのである。」(2)
(注)
- (1)沢木興道「禅談」大法輪閣、平成2年復刊、310頁。
- (2)同上、326頁。
坐禅が成仏
「坐禅が成仏である。だから此処で坐禅して居ると、其の儘それが成仏である。偉いものじゃと斯う思ふ。」(1)
「さうすると悟とは、斯ういふ悟、ああいふ悟といふ理念ではなく、修行そのものである。所がそれでは何か物足りぬ。修行と云ふことが、何か悟といふ舞台に上る花道のやうな気がする。さうすると、悟が欲しい為に足の痛くなる修行もしなければならぬ、勲章が欲しい為に戦争といふ恐い目にも遭はねばならぬ、といふやうな事になるのです。」(2)
「本当に修行そのものが悟そのものである。形そのものが精神そのものである。態度そのものが道そのものである。」(3)
「元来大地に衆生なし、我と一切衆生と草木国土悉皆成仏、天地一枚、たつた一つの坐禅があるばかりじゃ。その外には何もない。是れが坐禅である。」(4)
(注)
- (1)沢木興道「禅談」大法輪閣、平成2年復刊、303頁。
- (2)同上、313頁。
- (3)同上、324頁。
- (4)同上、355頁。
悟りもない
「成程、私の宗旨は悟も要らん、悟もない。小声で「悟もない」と云ふのでない。大きな声で「悟もない!」と云ふのである。」(1)
(注)
- (1)沢木興道「禅談」大法輪閣、平成2年復刊、299頁。
(大田評)
酒井得元氏の評価にあるとおり、昭和の曹洞宗によって、重んじられた人の言葉である。坐禅(修行)が悟り、という、それだけであるという説で、道元の説とは異なる。
大乗唯識説では、(A)修行による無分別智(修行時に悟り)、と(B)根本無分別智の證得、を区別しているが、沢木氏は、(A)のみしかないというのである。道元は、唯識説と同様に(A)を強調するが、(B)も非常に重視している言葉が『正法眼蔵』に数多く見られる(一例として『礼拝得髄』巻)。大乗仏教では、(B)の体験を「無生法忍」と呼び、これを得ると「不退転」になるとして、非常に重要な転機である。
「一切経は坐禅を文学に引伸ばしたもの」という主張があるが、経典が坐禅のみについて書いたものだという解釈は間違いであろう。道元が、一切経とは異なる宗教(もしそうであればもう仏教ともいえない)を創始した、坐禅のみが宗教である、という宗教を創始したという主張ならば、まだ筋が通る。だが、一切の経典が、そうだというと、誤りであろう。十二巻本「正法眼蔵」を見れば、明らかなように、戒、定、慧(以上は修行)、解脱、解脱知見、因果、そして、戯論寂滅、衆生救済、など広汎な主題について述べている。
仏教は人の苦悩を救うということが最も重要であり、道元も、慈悲行を強調したが、坐禅堂内で坐禅している時には、慈悲行はできない。
道元と沢木氏とは、かなり異なる。批判宗学の学者から、そういう坐禅は仏教ではない、と「伝統宗学」(沢木氏の解釈も)同様に、否定された。