沢木興道氏=坐禅が悟り

??? 疑問の説=坐禅が悟り ???

 曹洞宗の著名な僧侶であった沢木興道氏(1880-1965)は、坐禅が悟りであり、悟りの体験などないと主張した。「伝統宗学」と同様である。

坐禅しても何にもならない

坐禅が成仏

悟りもない


(大田評)
 酒井得元氏の評価にあるとおり、昭和の曹洞宗によって、重んじられた人の言葉である。坐禅(修行)が悟り、という、それだけであるという説で、道元の説とは異なる。
 大乗唯識説では、(A)修行による無分別智(修行時に悟り)、と(B)根本無分別智の證得、を区別しているが、沢木氏は、(A)のみしかないというのである。道元は、唯識説と同様に(A)を強調するが、(B)も非常に重視している言葉が『正法眼蔵』に数多く見られる(一例として『礼拝得髄』巻)。大乗仏教では、(B)の体験を「無生法忍」と呼び、これを得ると「不退転」になるとして、非常に重要な転機である。
 「一切経は坐禅を文学に引伸ばしたもの」という主張があるが、経典が坐禅のみについて書いたものだという解釈は間違いであろう。道元が、一切経とは異なる宗教(もしそうであればもう仏教ともいえない)を創始した、坐禅のみが宗教である、という宗教を創始したという主張ならば、まだ筋が通る。だが、一切の経典が、そうだというと、誤りであろう。十二巻本「正法眼蔵」を見れば、明らかなように、戒、定、慧(以上は修行)、解脱、解脱知見、因果、そして、戯論寂滅、衆生救済、など広汎な主題について述べている。
 仏教は人の苦悩を救うということが最も重要であり、道元も、慈悲行を強調したが、坐禅堂内で坐禅している時には、慈悲行はできない。
 道元と沢木氏とは、かなり異なる。批判宗学の学者から、そういう坐禅は仏教ではない、と「伝統宗学」(沢木氏の解釈も)同様に、否定された。