道元は「見性体験」のようなことは認めていない
??? 疑問の説=石井修道氏=道元は如浄に会った時に脱落した ???
石井修道氏(駒沢大学)は、見性体験を否定し、道元は、如浄に会った時に、脱落したと主張する杉尾玄有氏に同調する。多くの論文にあるが、『ブッダから道元へ』の文を引用しておく。
見性を否定し「叱咤時脱落」に賛成する
「『行状記』の作者を徹通義介ないし螢山紹瑾とする説があるが、螢山系統で「叱咤時脱落」の話が伝承されてきたことを認めて、筆者も杉尾説に賛成し(ただし面授時脱落の解釈は筆者と全同ではない)、螢山紹瑾の主著『伝光録』の中で「叱咤時脱落」がどのような意味と性格をもつかを検討したのである。(『伝光録』の本則の出典とその性格ー身心脱落の話と関連してー」、『駒沢大学仏教学部論集』第17号、1986年10月)。その結果、転迷開悟を主張する見性説と同じ位置づけが「叱咤時脱落」の話に与えられており、それが伝記作者の虚構の性格ではなかったかというのが筆者の結論であった。「叱咤時脱落」によるこの体験的転迷開悟を認めるとすれば、道元の否定した「見性」や看話禅と同じとなってしまうのである。ある限定した意味で言えば、『行状記』の作者の意図は、皮肉な」ことに現在に至るまで正しく理解されてきたと言ってもよい。しかし、道元の教えとは異なって、しかも誤って伝承するに至った原因のひとつに「叱咤時脱落」の話があるので、筆者は「叱咤時脱落」の話は、最悪と主張するのである。」(1)
石井氏は、「叱咤時脱落」と「見性」の否定は関連しており、道元が見性体験を嫌ったという説を主張されるが、それは、別に掲載する。
(注)
- (1)石井修道「修行と悟りー身心脱落とは何か」(奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年、194頁)
これに対する批判は、「反対意見」に掲載する。