松岡由香子氏の疑問の説(1)への批判2
??? 疑問の説(1)=坐禅は仏教ではない ???
その説の紹介
批判2=初期仏教は、禅定を含む「四聖諦・八正道を重視」した=三枝充悳氏
=禅定を含む「四諦説」「八正道」説が、初期仏教では重視された。従って、坐禅が仏教ではない、というのは誤りである。
松岡由香子氏の説
松岡氏は、道元が初期と晩期とで、全く異なる思想を持つという。初期の道元は間違いと犯した小さい人物と決め付ける。
- 坐禅は因果を否定するので外道である。仏教ではない。
- 道元は、初期の頃、坐禅を強くすすめて、因果を否定していた。しかし、十二巻本「正法眼蔵」では思想を変えて、因果を否定しない。
- 坐禅のみ強調すれば、三宝への帰依を否定することになる。
- 晩年の道元は、初期仏教と同じであり、独自性がない。
松岡氏の根底には、悟り、解脱の体験を「妄想」のごときものとみなして、否定する考えがある。
批判2=初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した
- 三枝充悳氏の研究からの批判
- 初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した
- 四聖諦に道諦があり、道諦は「八正道」であり、「八正道」に正念、正定が含まれていた。初期仏教では、そういう実践が重視されていた。
ここには、批判の概略を記述します。三枝氏の原著の引用文は、次の記事をご覧下さい。
ここには、要点だけを箇条書きに記述するので、三枝氏の言葉は、上の記事をご覧いただきたい。
- 十二支縁起説は、最初期の経典にはなく、かなり、後に成立した。
- 初期仏教は、「四聖諦」と「八正道」を重視した。苦の解決が仏教の重要な目標であった。十二支縁起説の順観と逆観は、四聖諦のうちの苦諦、苦集諦、苦滅諦にあたるが、苦滅道諦を欠く。従って、十二支縁起説だけでは、現実の苦は解消されない。苦の原因である「無明」も滅しない。
- 苦の滅、無明の滅のためには、道諦の修行が必要である。それは、八正道としてまとめられた。四諦説、八正道としてまとめられる前には、実質、それに相当する教えは釈尊から説かれた。
- 「八正道」は、四諦説とは独立して成立したが、四諦説がまとめられてからは、道諦といえば、必ず「八正道」であった。
- 「八正道」には、「正念」「正定」が含まれている。
だいたい、学会の積み重ねは、上記のようであるが、八正道の正念、正定などは、坐禅と実質同じである(1)から、「坐禅が仏教ではない」というのは、三枝充悳氏から見れば、暴論である。もし、松岡氏が、誰かの坐禅指導を受けて、それをみて、初期仏教の八正道のものと違うから、坐禅は仏教ではない、と判断したとしたら、それは誤りである。坐禅にも、種々の坐禅があって、正当な仏教の坐禅ではないものも多いからである。
(注)
(1)このことは、学問は、まだ解明できているとはいいがたいが、大田のHPに記載しているように、苦の解決、エゴイズムの捨棄、悟道、他者を救済する、などを肯定する現代の坐禅ならば、実質、初期仏教の「八正道」と共通点が多い実践行である。学問は、これが是か非かを解明してからでない限り、いかなる思想、見解であろうとも、それだけが仏教であるという偏見を主張してはならないと思う。