帰依仏法僧の「法」とは
「法」とは、戒定慧・解脱・解脱知見-平川彰氏
「大般涅槃経」の「自燈明・法燈明」で釈尊が言われた依り所とすべき「法」とは何か。平川彰氏は、「帰依三宝」すなわち、仏教徒が帰依すべき三つの宝、仏・法・僧の場合、原始仏教教団では「法」は、五分法身と解釈されていた、という(1)。五分法身は、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」である。
平川氏は、最も古い経典群とされる「スッタニパータ」にある「宝経」に関連して、三宝の「法宝」を考察された。
「禅定に入りし釈迦牟尼の証得した滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの、この法に等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。
最勝の仏が賛嘆する清浄なる(心統一)を、世人は無間定という。この心統一と等しいものはない。これ、法における微妙なる宝である。この真理によりて吉祥あれ。」(2)
ここで、「法」は、「滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの」「清浄なる(心統一)、無間定」とされている。
「滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの」は「涅槃」を意味する。そうだとすれば、涅槃は、解脱、悟りである。
「無間定とは、この禅定に入ると、その直後に悟りが得られるので「無間」という。したがってこれは定であるが、悟りの智慧を含んでいる定である。即ち無間定で道諦を示したものと解釈される。」(3)
こうして、平川氏は、「宝経」の法宝の解釈は、「滅諦涅槃と聖道(道諦)とを「法宝」と見る解釈であり」(4)という。
また、平川氏は「法」を、五分法身(戒、定、慧、解脱、解脱知見)とする言葉もあることを指摘している(5)。仏陀が悟った法に帰依したという物語である。
「尊敬するものがなく、恭敬するものがないのは苦である。したがって自分は、何びとかを尊敬し、その人に帰依して住したいが、しかし自分よりすぐれた戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、解脱知見蘊をそなえた人を見ない。それ故、自分は、自分の悟った法を尊敬し、恭敬して住しよう。」(6)
「仏陀の悟りの智慧は智慧だけで孤立して実現するのではなく、その智慧の生ずる心理的場として禅定がある。それが定蘊である。さらに完全なる禅定が実現するためには、その根底に完全なる戒の実践がある。これが戒蘊である。仏陀においては、これらの戒蘊・定蘊・慧蘊が無漏になっている。その無漏となっている点が解脱である。さらに解脱したとの自覚がある。これが解脱蘊と解脱知見蘊とである。」(7)
(注)
- (1)平川彰「法と縁起」春秋社、1997年、23,29頁。
- (2)同上、23,195頁。岩波文庫「ブッダのことば」225,226偈。
- (3)同上、194頁。
- (4)同上、195頁。
- (5)同上、195頁。
- (6)「南伝大蔵経」12巻,238頁。大正、2巻、321c。
- (7)平川彰「法と縁起」春秋社、195頁。
戒・定(坐禅)・慧・解脱の重視は、道元、白隠も同じ
以上の平川彰氏の考察のように、阿含経を保持した原始仏教教団で、帰依すべき「法」は、「五分法身」とする解釈が妥当のようである。「五分法身」という整理された用語は、釈尊のものではなかろうが、その内容の五つの重要性は、最古の経典「スッタニパータ」にも含まれている。従って、依りどころとすべき「法」といったら、こういうものを指すことは、釈尊の弟子には理解されたのであろう。
「法」は、戒・定・慧の修行と、悟り、すなわち、解脱(体験)と解脱知見(体験から自覚される智慧)とする解釈が早くからあったことになる。スッタニパータの「宝経」は、最も重要な、悟り、解脱涅槃を法といっている。なお、「無間定とは、この禅定に入ると、その直後に悟りが得られるので「無間」という」とされるので、これは、いわゆる「悟りの体験」であると思われる。
後者の「悟り」を依り所とするということは、それに至る道諦、すなわち、修行道が含まれている。漏(煩悩)の滅尽・離貪・不死(甘露)・微妙なるもの、清浄なる(心統一)、無間定が標準であると示されていることになる。つまり、持戒、貪瞋痴の捨棄、禅定などの実践、および悟り(解脱)である。
道元禅師は「只管打坐して身心脱落を得よ」といい、白隠禅師は「坐禅して見性せよ」というから、釈尊の教えと根幹は同じである。道元禅師も、我利、我執を捨てよ、と厳しく指示している。漏(煩悩=我執によって起きる)の捨棄を強調している。目的のない坐禅などではない。坐禅は帰依すべき「法」である。坐禅して、煩悩を捨棄し、解脱を目標とするのである。