松岡由香子氏の疑問の説(1)への批判1

??? 疑問の説(1)=坐禅は仏教ではない=初期の道元禅は外道 ???     その説の紹介

批判1=禅は釈尊から行われた。道元は最期まで坐禅をすすめた。禅は因果を否定はしない。

 松岡氏は、道元が初期と晩期とで、全く異なる思想を持つという。初期の道元は間違いと犯した小さい人物と決め付ける。  松岡氏の根底には、悟り、解脱の体験を「妄想」のごときものとみなして、否定する考えがある。
 松岡説に対しては、詳細な批判が本会の研究者によって、行われるだろう。ここには、反論の方針を簡単に記しておく。

批判1=禅は釈尊から行われた。道元は最期まで坐禅をすすめた。禅は因果を否定はしない。

(初期仏教の経典によれば、坐禅は帰依すべき「法」である)
 坐禅は、初期仏教では「禅定」「正定」(「正念」も現代では坐禅に含まれる)など(1)と呼ばれていて、帰依仏法僧のうちの「法」に坐禅(正念、正定など)が含まれている。従って、坐禅を仏教ではないというのは、「法」を否定するので、松岡氏ご自身が「仏の説かれた法」を否定(撥無)して「外道」であることになる。平川彰氏が、「法」には「定」が含まれていたとされている。初期仏教では、四聖諦も重要な「法」であり、その道諦に、「正念」「正定」が含まれている。だから、坐禅(「正念」「正定」など)は、帰依すべき「法」である。私は、「正念」「正定」は現代の正師が指導する「禅」と実質同じであると思う。ほかの阿含経の専門家にも、確認をお願いしたい。松岡氏は「外道禅」しかご存知ないから、このような学説(?)を主張される結果となったのだと思う。キリスト教の信仰も相当な試練が必要であろうが、坐禅が釈尊の「正伝」だと心底決定するのも、相当の信と試練を要する。解脱しない限りわからないからである。果が生じて初めて因であったとわかる道理もある。カルト宗教などの外道にも坐禅がある。果が出ていない因は、正因とは判断ができない。それは、仏教による「正念」「正定」ではないかもしれない。正定ではない「外道禅」を見ていては誤解する。「正法」を信じるしかない。仏教では、正法への帰依が重要である。  松岡氏は、浅い禅(苦の解決や悟りを否定した目的のない坐禅、キリスト教の信仰の目で見た坐禅、という初期仏教にも道元にも白隠にもない坐禅)しか検討されないために、釈尊(阿含経の「八正道」にある正念や正定)や道元や白隠の禅を誤解したと思う。禅が阿含経にあり、四聖諦にあり、八正道にあるから、禅が仏教でなければ、釈尊も阿含経も仏教ではなくなってしまう。坐禅とか解脱(悟り)を否定したいという「先入見」(仏教が批判する「見取」「「偏執見」)があると、あるいは、坐禅はキリスト者の坐禅でも仏教に帰依した人の坐禅も同じだという「先入見」があると、道元の言葉を曲解するだろう。

(仏教に帰依しない坐禅と他の坐禅を同一視することの疑問)

 道元は、十二巻本「正法眼蔵・四禅比丘」巻で、三教一致説を否定した。仏キも異なる宗教であり、異なる指導者によって維持されるから、キリスト教の信者は、キリスト教の聖職者に帰依するので、仏教の仏法僧に帰依できないだろう。仏教の坐禅は単独ではなくて、仏教の法の裏づけがある。定慧一等(戒定慧の三学)である。それがなくて、どの宗教にも共通の坐禅ならば、それは、仏教の坐禅ではない。坐禅は仏教の「法」の一つである。坐禅にも種々ある。三宝に帰依しないキリスト者の坐禅では、仏教の真意がわかることができないのは当然である。死後のことを問題にせず、坐禅すれば自己が仏であると自覚する解脱がある、と真剣に「帰依」しなければ、真剣な正しい坐禅にならない。自己以外の神を持ち、他の宗教に「帰依」している宗教者の坐禅では、健康法とか、聖書の言葉の一部の確認程度の効果は得られるかもしれないが、「仏」のいう「解脱」は得られない。自己の外のものへの信仰が心を抑圧し真剣な坐禅にならないからである。
 外道(キリスト教は仏教ではないという意味で「外道」である)である松岡氏が、坐禅が「帰依仏法僧」ではないと主張するのはおかしい。帰依仏法僧の宗教的な深みは、松岡氏はご存知ないはずであるから。仏教とキリスト教の、「仏」と「神」が同じか違うか対話がすすめられている段階であろう。エックハルトもキリスト教であるならば、深い部分では類似性もあると思うが、禅や解脱を説き今生での仏としての覚を説く仏教は、キリスト教との違いも大きいようである。自己とは別に絶対の神を認めるのも、この今の世のほかに神の国を認め神の国に入ることを願うのも、二元観であり、仏教の「中道」ではない。中道を説く仏教に帰依「仏法僧」できるならば、そのような神や天国は願わないはずである。自己とは別の神や神の国を捨てられない人には、帰依仏法僧が心底わからないだろう。しかし聖書の一句に徹底帰依し坐禅すれば悟ることはありうる。だが、そうすれば、従来のキリスト教信仰とは違った世界と自己を見るであろう。「心の貧しき者は幸いなり、天国はこの人のものなればなり」という句があるが、「自分の心が貧しい」から、学解も知性も信さえも私にはないほどに「貧しい」とはっきりと見とどけた人ならば、仏キは同じような深みがあるとも言えよう。自らの学解を信じられる人は、豊かな人である。だが、全く心貧しき人(学解なく、信なく、能力なく、悟りなき)がいるのである。(私にはそう聖書も言っているように聞こえるが。)仏教もキリスト教も、こころの貧しきことを真に自覚することは厳しいものではなかろうか。
 初期仏教の経典でいえば、正師(悟り・解脱を否定する人は正師ではない)である僧侶に会い、苦の四聖諦を信じて、八正道(坐禅が含まれている)を修して、苦から解放され、解脱を得るという僧侶に帰依するようにいった仏(釈尊)の法(初期仏教教団では戒・定・慧・解脱・解脱知見を帰依すべき法としていたという説が有力)のすべてに帰依するのが、「帰依仏法僧」であろう。
 道元禅師が十二巻本「正法眼蔵」で引用する経典にも、種々の仏教実践が含まれていて、結局、戒・定・慧・解脱・解脱知見に集約されると見てよい。だが、キリスト者は、そのように説く「正師」(悟りを否定する僧侶は正師ではないことは道元が強調する)の真剣な指導を受けないだろう。すなわち、法とは禅定を含む八正道であり、解脱ありと「法」を説く「僧」に、帰依しない。仏や「仏」法に帰依せず、イエスに帰依する。キリスト教の聖職者の多くは、いまだキリスト教と仏教は違うというであろう。仏教に帰依しない人の坐禅は「外道禅」である。坐禅はカルト宗教にもある。坐禅を、みな同じように考えては大変な間違いであろう。
 帰依三宝による正しい坐禅が特に大切で、正しい祗管打坐は帰依仏法僧しない限り、一生できるものではない。一生、祗管打坐する人には、帰依仏法僧がある。上記のような、表面の言葉づらだけで、「坐禅を強調するから、そこには、帰依仏法僧がない」という短絡的、教条主義的な解釈をされるのは、坐禅と悟りを否定したいという先入見のなせるわざではなかろうか。先入見を捨てよ、偏見を捨てよ、如実知見せよ、という仏の教えがある。初期仏教経典も、道元の十二巻本「正法眼蔵」も、先入見を捨てて読めば、坐禅と思われる修行が多く説かれている。

(縁起説には種々ある)
 初期仏教経典でもそうだが、禅者でも、因果・縁起説と禅定とは両立する。道元禅師も、最後まで因果と坐禅は両立している。
 平川彰氏、三枝充悳氏、森章司氏などの研究によれば、縁起説には種々あって、原始仏教の十二縁起は後世の縁起とは異なる。順観は、迷いの縁起であり、逆観では、無明が滅し、ないし、生が滅し、老死が滅する、というごとき、一見、因果の滅のような言葉があり、逆観は、「縁起」ではない、という説得的な学説が出た。十二支縁起説は、大乗仏教でいうようなすべての現象を縁起で説明するような縁起説とは異なるとする。禅者も、修行によって、「生死を超える」というごとき、因果の否定のような言葉をいうのは、物理現象のすべてを説明するような縁起思想とは異なる。「苦の生滅」にかかわる縁起である。同じような状況にあっても、苦に思う(「受」「識」を起こす)人と思わない人がいるが、苦に思わない人は、縁起説、因果の道理を否定しているのではない。信の効、修行の効、悟りの効により、苦の縁(偏見などにより他者を苦しめる他者に苦を与えることまで含む)を起こすことがなく(苦に至る十二支のどこかを滅する=生起させない=行的)なるという、因縁の滅もあるわけである。それは、すべての現象を縁起で説明するような他の縁起思想を否定しているわけではない。十二縁起の逆観には、「老死」さえも滅する(生物学、医学的には、生きているのに悟りを得た時、「生は尽きた」という十二支縁の一つであり最大に関心事である「縁」を否定している)、というほどに、一見、縁起、因果の否定とさえみられる説が原始仏教の十二縁起説である。十二支縁起の逆観は、十二支縁を否定するから「十二支縁起説の逆観は仏教ではない」と、なぜ、批判宗学者や、松岡氏は言わないのか。
 このように、十二縁起説も難解なところがある。事実、縁起は「難解」であるという経典の言葉がある。それを心底、会得できるには、容易でない修行をしたはずである。原始仏教では、四聖諦を重視したのは定説である。「道諦」があり、「八正道」がある。実践からしか会得できない宗教的安心があったから「仏教」は世界宗教になったのであろう。現代まで多くの宗教者が生涯実践、体得してきた。研究者も、己れの知解、学解だけに慢心し、学解だけを信じて、実践的宗教を否定するようなことをせず、真摯に探求してもらいたい。

(道元は晩年まで坐禅し坐禅を強くすすめていた)
 道元禅師が最後まで、坐禅をすすめていたことは、今は簡単に次の証拠をあげる。 (根幹にあたる部分には大きな「思想」の変化はない)
 学者は、道元禅師の思想の変化を軽軽しく言うが、注意が必要である。大乗経典群(般若、唯識、華厳)では、無生法忍(悟りの体験である)を得ると「不退転菩薩」になるとされる。「不退転」になる体験(無生法忍)を経過した菩薩が、「不退転」になった後に表明した説示(それを学者は「思想という)の根幹、すなわち、「不退転」を得るに必須の要件、たとえば、持戒、煩悩(慢心、偏見、邪見など)の捨棄、坐禅とか無生法忍(悟り)を、否定するような「思想」の変化はしていない。根幹部分が変化するのは、真の悟りの体験のない人の場合であろう。道元禅師は、如浄禅師の下で、悟って後は、枝葉にあたる部分の変化はあるが、根幹の部分(たとえば、戒・定・慧・解脱・解脱知見・慈悲行の重視)は生涯変化していないというのが私の研究成果である。阿含経、道元禅師、白隠禅師の間でも、枝葉の部分の相違はあるが、根幹は同じであると見ている。

(釈尊「正伝」を使命とする仏教者に「独自性がない」と軽蔑する愚)
 道元に独自性がない、と軽蔑の評価をされるが、禅、仏教に帰依していない研究者は、仏教の宗教性を理解していない。道元は、独自性ではなくて、釈尊そのままを「正伝」として実践することをほこりとする言葉が多数ある。たとえば、  すなわち、禅、仏教の本領とは、釈尊と全く同じく、戒・定・慧・解脱・解脱知見を證得していくことこそ仏教なのであり、釈尊と異なる独自性を加えるならば、もう「仏教」ではなくなるのである。キリスト者の場合、聖書に記載している教えから離れて独自の「思想」を作れば賞讃されるのか。やはりそうではないのではないか。これを思えば、開祖と違って独自性がない、ということを宗教者に向かって軽蔑の理由とすべきではない。研究者は釈尊の教えに帰依せず、学問の対象とするから独自性を賞賛するようだが、宗教とはそういうものではないのではないか。松岡氏のこの言葉は、開祖に帰依する「実践宗教者」の目ではなくて、新説をよしとする「研究者」の目である。このような目で、仏教の宗教性がわかるのだろうか、強い疑問を表明せざるを得ない。
 釈尊の教えのごとく、戒・定・慧を修し、解脱し、解脱知見し、他の人にも教えて、苦悩から解放され、主体的に生きていく。単なる哲学ではなくて、人格上に体現させていく。これが仏教であると思う。とにかく「解脱」しなければ、如実知見できない、自己の真実、仏教の真意はわからない、と阿含経には説かれているはずである。釈尊の教えそのままの戒・定・慧を修し、解脱し解脱知見を開くことこそ、仏教の宗教性であるはずである。これをしない人に帰依仏法僧の真はわからない。
 この深い宗教性に帰依し実践すれば、仏教は信解にとどまらず人格上の実現をすすめているので、現代人のエゴイズムもなくなり、苦悩する人も少なくなるはずであるが、学者によって、否定され、軽蔑される現代であり、実に残念なことである。道元は、釈尊と異なる独自の思想を必要とはしていないようである。それを正伝としている。

(無住処涅槃、菩薩、階位の思想)

 「最後の道元は、仏に至りてさらに仏を見る覚者ではなく、いつの世にかに成仏を期待する菩薩だったのである。」というのは、大乗仏教の菩薩の思想、無住処涅槃、階位の思想などを理解しない、まとはずれの評価である。その思想からの松岡氏への批判はいずれ行う(3)。
 大乗仏教者は、慢心してとどまるようなことをしない。自己の本性を覚った後、他者を救い(他者に苦から解放される仏教を教える)ながら、どこまでも向上すべきところがある菩薩であるとするのである。おそらく、「世界が全体幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」と言った宮沢賢治は、本当に大乗仏教を理解していた菩薩だったのだろう。多くの人が苦悩しているのに、救えない。他者を苦しめるエゴイズム、偏見が多いのに、それをおかす者に説いて廃絶させられない。自分も未熟だ、なすべきことが多く、自分は仏だと慢心していられようか。

(学問が仏教を否定し、結果として国民が仏教を嫌悪し、カルトなど他の宗教の宣伝に)

 キリスト教にも深いものがあるだろう。私はキリスト教を浅いとか、否定はしない。松岡氏の仏教解釈がおかしいというだけである。しかし、キリスト者が、深い仏道を実践せず、悟道を否定する程度の坐禅だけをして、学問で得た知解で、仏教の聖者である道元禅師、白隠禅師が外道と軽蔑され、結果として、キリスト教の優越性をみせている。キリスト者の学解の目や、批判宗学者の知性は、道元禅師、白隠禅師をも超えるというわけである。人格上に体現し多くの人を救済する手助けをした仏教の聖者への誹謗には、仏教教団は、きちんと反論すべきではなかろうか。そうでないと、仏教宗門の若い僧侶や一般の仏教信者が、仏教に絶望するのではないか。
 仏教の根幹の実際を知る仏教学者、禅学者が少ないことは、竹村牧男氏が指摘するとおりである。
 釈尊以来の伝統仏教の坐禅や悟り(解脱、無生法忍)が現代の学者から否定される。般若の目でなく自我の目で文字を見て仏教がわかったつもりになって、当時の厳しい政治・交通状況の中で修行し無上正等覚を極めて仏教界からは断圧され差別待遇されながらも後世に伝えた道元禅師、白隠禅師という聖者を軽蔑する学者が極めて多い。これでは、日本仏教にとって、大変な損失である。
 仏教学者、禅学者の多くが、坐禅、悟りを嫌悪し、否定するので、仏教とは何か、その真意が学者によっても解明されていない現状である。学者が、仏教の根幹を否定するゆえか、日本の国民、僧侶の仏教離れ、禅離れが起こり、日本の仏教は衰退する一方である。
 種々の精神的な苦悩、心の病気が禅、仏教によって軽減することがあるのに、残念なことである。アメリカの医学界で、マサチューセッツ大医学部のジョン・カバット・ジン氏らの医学分野での臨床的実践が注目されてきた。縁起思想偏重で坐禅を否定する日本の仏教学の偏見が、欧米から指摘される日が来るかもしれない。

 昭和の日本は、禅や禅学、禅の哲学が盛んであったが、平成の日本は、仏教が死に、禅が死に、その真を解明しない仏教学、禅学のみが残るに等しい状況である。国民の苦悩解決には何も貢献せず、思想研究のみの学者が生き残り、一般国民は、彼等の収入のために入学金・授業料を納めた後に、社会で働き、仏教が言うように、苦に直面しても、仏教学の成果を享受することもなく、心を病み、自殺していく。国民は与えて心を病み自殺する。学者は受けて研究の悦びを享受して生涯をまっとうする。学者は少数でエリートであり、国民は多数であるから、この構造の矛盾を破綻させず、幸福な学者と疲弊し苦悩する国民が再生産されてきた。インドにおいて、似たような構造を批判して大乗仏教が起こったと思う。
 学者はエリートだから、社会のトップの地位にあり、この構造を変えないようにする力を持つ。坐禅否定、悟りの否定の心理の根底には、この構造を批判する実践者への対決が根底にあるのではないか。その心理学の解明をしたいというのも、本会の目標である。
 「学問の名において、科学的でないことが行われている。」とある人が言ったという。仏教の学問も、学者の先入見が深く広く浸透し、科学的ではないようである。多くの人が、苦悩している。職場、地位、収入が保障されて満足している学者は、苦悩する人を傍観するのみである。仏教の慈悲はどうなったのか。疑問を持つ人がいないのか。今の日本の仏教、仏教学でいいのか。
 もちろん、ある禅僧は、「禅は因果を否定できはしない、「中道」の実践である」と言っている。初期仏教の研究者にも因果あり、中道あり、坐禅あり、解脱(悟り)ありと解釈して、結果として禅僧の坐禅の実践を支持する初期仏教(阿含経)の研究者もいる。こういう研究を本会では検証したい。