松本史朗氏の疑問の説(1)への批判1
??? 疑問の説(1)=十二縁起を思惟することのみが仏教 ???
批判5=釈尊は十二支縁起説を悟ったのではない=竹村牧男氏
=十二縁起は、それだけでは十全ではない。覚りの実現に導くものという竹村牧男氏からの批判
ここには、批判の概略を記述します。竹村牧男氏の原著の前後を見れば、松本史朗氏への批判であることがわかります。全体の概要は、次の記事をご覧下さい。
=松本氏は、仏典の他の教説との関連を深く考察する学問的手法によらず、自分の哲学・信仰から
松本氏は、『律蔵』「大品」を根拠にして、釈尊は、十二支縁起説を悟ったのだと主張されるが、そのように解釈する松本説への批判である。
批判5=釈尊は十二支縁起説を悟ったのではない
=十二縁起は、それだけでは十全ではない。覚りの実現に導くもの。覚りの実現には八正道が必要、というのが初期仏教。
十二縁起は生死輪廻の説明
釈尊が覚ったのは、十二支縁起ではなかったにしても、仏教と言えば、縁起が説かれるが、どのような意味があるのか。松本史朗氏のような説が出たために、竹村氏が、再検討した結果である。
十二縁起の解釈として、「刹那」「連縛」「分位」「連続」の四種があった。このうち、分位縁起が生死輪廻の説明にあたるもので、一般にこの説が有力であった(1)。
「ともあれ、その後の仏教思想史においては、説一切有部であれ、龍樹であれ、唯識であれ、この十二縁起説は、生死輪廻のしくみを説明するものと見た。それは間違いのないところである。」(2)
説一切有部では、十二縁起を三世の中に二重の因果を見る(三世両重)説である(3)。
「唯識の十二縁起解釈は、無明より受まではほぼ種子に他ならず、愛・取はこれを潤すものであって、その全体が有に集約されると見る。前の十支によって後の二支があると見るのであり、二世の一重の因果しか見ない説である。」(4)
十二縁起もまた、学派によってその解釈が異なるが、みな十二縁起は生死輪廻のしくみを説くものであった(5)。この縁起説の意義はどこにあるのだろうか(6)。
十二縁起は生死輪廻に関する説であり、業の法則を説こうとするものである(7)。世界全体のあり方、存在そのもののあり方を説明しようとするものではない(8)。
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』 大東出版社、1997年、118頁。
- (2)同上、119頁。
- (3)同上、122頁。
- (4)同上、125頁。
- (5)同上、126頁。
- (6)同上、126頁。
- (7)同上、126頁。
- (8)同上、126頁。
十二縁起を時間的な因果関係とみるのは困難
松本史朗氏は、縁起に、時間的因果しかみないというが、竹村氏は、それを批判する。
「各支間の関係は、存在論的な因果関係を明かすものとばかりはいえないだろう。」「無明と行とは存在論的な因果関係ではない。あるいはまた、行(業)によって識がある、というのも、決して存在論的な意味での因果関係ではないであろう。おおよそ十二縁起の各支間の関係は、事柄の発生の順序の説明であったり、事柄の発生の条件の解明であったりするのであり、存在としての必然的な因果関係ではない。したがって、この十二縁起説のみから、存在の無自性性を導くことはできないであろう。」(1)
「もっとも、他に因をもつ関係がいかに成立するかは、なかなか困難な問題をかかえてしまう。このことは、因果関係がことがらの事実としていかに成立するか、古来、難問であったことを想起させる。特にこれを時間上に見ようとするとき、因(もしくは過去の存在)は無くなるが、しかし無くならないものとして考えられなければならないことになる。かえって『中論』は、時間的な因果関係においては、このような矛盾が輩出してやまないこと、つまり関係を関係としては語れなくなることをしきりに説いている。むしろ実体論は成立しない故に、そのあり方を仮りに縁起だというしかないという方があたっているであろう。」(2)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』 大東出版社、1997年、126頁。
- (2)同上、127頁。
十二縁起の意義
「十二縁起説は、いつも順観とともに逆観がなされる。−−(中略)
とすれば、順観・逆観あわせて観察されるところに、十二縁起の十全な観察があるということである。一体、このことは、何を物語っていようか。
それは、我々の生存の苦しみの原因を探求していった時、無明にこそ根本原因があるのであり、逆に無明さえ滅ぼしたならば、行も生ぜず、識も生ぜず、・・・我々の生存の苦しみは消滅し解脱する、ということを明かしたものだということである。もしこの説が、世界の縁起ということを説きたいのであれば、当然無明も何かに縁って起こるものであることも強力に含意するであろう。しかしそのとき、ではこの生死輪廻の連鎖の、何を克服し、何を退治すればそれからの解脱が可能なのか、不明のままになってしまう。無明にも、その根がなおあることになるからである。根を絶やさなければ、一時的に無明を滅しても、また無明が出てくるであろう。それでは、修行の方途が確立されはしないことになる。しかし、問題はひとえに無明にあるのだ、ということがはっきりしていれば、その無明さえ退治すればすべて解決することになる。十二縁起説の意味は、正にここにあるのである。」(1)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』 大東出版社、1997年、129頁。
無明の滅のためには「八正道」が必要
「では、無明さえ退治すればよいのであれば、どうすればよいのであろう。原始仏教では、八正道ということになろう。この正道の「正しい」の意味は、中道にかなっているということが含意されているにちがいない。一方、大乗仏教ではどうであろうか。唯識では、唯識という了解すらも超えていく唯識観に究まるであろうし、龍樹の『中論』によれば、次の頌こそ、その問題への解答となっている。
業と煩悩が尽きることから、解脱がある。業と煩悩は、分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかしながら、戯論は空性において滅せられる。(十八−5)
このように、『中論』は十二縁起(惑・業・苦)の根本的解決は、その根本原因の分別、戯論を離れることにあるのであり、そのことは空性において達成されると言っている。空性をよく理解し、洞察し、覚証することこそが、十二縁起の上からいっても、最も根本的な問題だというのである。」(1)
「重要なことは、空性を真として立てることではなく、空性において戯論を滅することである。故に「空性とは、あらゆる見解の透脱であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。一方、人にもしも空見があるならば、その人々を治癒しがたい人とよんだのである」(十三−8)ともいわれる。空観では、空も空ずることになるのである。そこでは何が覚証されているのであろうか。
心の対境が滅したときには、言語で表わされるものもなくなる。というのも法性は不生・不滅であり、涅槃のようだからである。(十八−7)
この頌については、次の頌が想い合わされる。
断じられることなく、(新たに)得られることもなく、不断・不常・不滅・不生である−これが涅槃であると言われる。(十八−3)
結局、八不の世界が覚証されることになろう。『法華経』で、三界の者が三界を見るようではなく、如来が三界を見るようである。このとき無明も断ぜられ、業による生死輪廻はやむのである。」(2)
「このように十二縁起の説は、それだけで十全に存在すべての関係性を説こうとするものではない。それはひとえに迷い・苦しみの道行きからいかに脱却すべきか、その方途を示すことに最大の意味があるものなのである。それは結局は、無上正等覚の覚りの実現へと導くものであった。」(3)
唯識を検討してみても、同様のところに帰着する。
「縁起は、刹那滅のある法のうえの仮説なのである。したがって、縁起を究明していくと、結局はこの現在の刹那に逢着し、即今の主体に逢着する。そこに真実の自己を見出すことの方により深い意味があるであろう。」(4)
(注)
- (1)竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』 大東出版社、1997年、129-130頁。
- (2)同上、130頁。
- (3)同上、131頁。
- (4)同上、138頁。