松本史朗氏の疑問の説(1)への批判1

??? 疑問の説(1)=十二縁起を思惟することのみが仏教 ???

批判2=釈尊は十二支縁起説を悟ったのではない=竹村牧男氏

=釈尊は十二縁起をさとったとはなっていないという竹村牧男氏からの批判 

ここには、批判の概略を記述します。竹村牧男氏の原著の前後を見れば、松本史朗氏への批判であることがわかります。全体の概要は、次の記事をご覧下さい。
=根拠は、仏典の他の教説との関連を深く考察する学問的手法によらず、自分の哲学・信仰から

 松本氏は、『律蔵』「大品」を根拠にして、釈尊は、十二支縁起説を悟ったのだと主張されるが、そのように解釈する松本説への批判である。

批判1=釈尊は十二支縁起説を悟ったのではない

=悟りは、別である。悟った後に十二縁起を観じたとなっている 

釈尊が十二支縁起説を悟ったとは記されていない


『律蔵』「大品」には何を覚ったかは書かれていない

 初期仏教経典の一つ『マッジマニカーヤ』の『聖求経』の中の一節にも同様の言葉があって、釈尊は八不を覚ったと理解されていた。  竹村氏の結論は、釈尊が悟ったのは、十二縁起説とは書かれていない、ということである。

縁起説の位置

 釈尊が覚ったのは、十二支縁起ではなかったにしても、仏教と言えば、縁起が説かれるが、どのような意味があるのか。竹村氏は、検討結果はこうである。
 十二縁起もまた、学派によってその解釈が異なるが、みな十二縁起は生死輪廻のしくみを説くものであった(1)。
 この縁起説の意義はどこにあるのか、考証を重ねた結果は、やはり覚りの体験に導くためであるとする。
 竹村氏は、唯識(大乗仏教の瑜迦行派)を検討してみても、同様のところに帰着するという。