松本史朗氏の疑問の説(1)への批判1
??? 疑問の説(1)=十二縁起を思惟することのみが仏教 ???
批判3=釈尊は十二縁起を悟ったのではない=三枝充悳氏
松本氏は、『律蔵』「大品」を根拠にして、釈尊は、十二支縁起説を悟ったのだと主張されるが、三枝充悳氏からの批判である。
十二縁起を悟ったという資料
三枝充悳氏によれば、釈尊は何のさとりによってブッダになったかを示す資料があることはある。しかし、だからといって、他の資料との関連などから、これをそのまま信じるのは学問とはいえない、というのである。
資料としては、大きく分けて二種類ある。
「その資料は大きく分けて二種類ある。
第一は『ウダーナ』(一-三)に出ているものであり、これはパーリ文の『律蔵』の「大品」にも、ほとんど同一の文章が見られる。」(1)
「第二の資料は『相応部』経典にある。『雑阿含経』にも同種のものが見られるが、いま前者をつぎに紹介する。」(2)
「以上、十二支縁起の生と滅との議論を見て行くと、第二の資料のほうが、第一の資料にくらべて、はるかに素朴であり、初歩的のように見える。したがって、第二の資料が整備されて第一の資料になったのであろう、と推定される。」(3)
十二支縁起説は、比較的新しい説明であるから、釈尊の成道の内容が十二支縁起だという松本史朗氏の主張を「資料の批判的扱いをまったく無視した立言」と批判する。
「十二支縁起については、のちに「縁起」の章で詳しく論ずるが、それは、非常に数多くある有支縁起[各支を数えて行く縁起説]のなかで最もよくととのったものである。くり返していえば、数ある有支縁起が次第に整備されて十二支縁起説となっておちついた、と考えてよい。したがってそのような十二支縁起説が成道の最初に置かれるということは、明らかに、経典編纂者がしたことであって、歴史的事実ではあり得ない。[最も整備された十二支縁起説が当初に存在していて、のちにそれよりも素朴であり、いわば原初的である諸支縁起説、すなわち、十二支まで達せず、六支、九支、十支、あるいはそれ以外の有支縁起説が出てくるはずは、到底あり得ない]。
したがって、成道の内容が少なくとも十二支縁起説であるという主張は、たとえ上掲の資料のそう説かれているからといっても、それは資料の批判的扱いをまったく無視した立言であって、そのような処理によっている初期仏教の説明は、説得力をもっていない、といわなければならない。」(4)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(上)レグルス文庫、第三文明社、1995年、196頁
。
- (2)同上、199頁。
- (3)同上、201頁。
- (4)同上、202頁。
十二縁起を悟ったというのは経典編纂者の粉飾
十二縁起を悟ったというのは経典編纂者の粉飾と考えるのが妥当であるから、学問研究者が、そういう編纂者に欺かれてはならない。
「縁起説そのものはたしかに仏教全体にとって、きわめて重要な思想であり、立場である。おそらくそれゆえにこそ、経典編纂者は、成道に十二支縁起説を置いたのであろう。しかしわたくしたちは、それに欺かれてはならない。
こうして、初期仏教思想の基本的立場を「十二支縁起」ないし「縁起」とする主張を、わたくしは取らない。」(1)
「以上、説いてきたところから、四諦説が初期仏教思想上に占める位置のきわめて重大であることが知られよう。その意味において、金倉圓照博士がその著「印度古代精神史」(三〇九ページ)に、
「大品」の作者は、四諦説のあるべきところに、十二因縁説を置き、もって成道以後の経歴を粉飾した。
と説いているのも、首肯されるものがあろう。
なお、四諦説の重視は、さらに部派仏教にも大乗仏教にも決して変らず、とりわけ部派の諸派には「仏教は四諦を基本とする」との主張がきわめて強い。」(2)
(注)
- (1)三枝充悳「初期仏教の思想」(上)レグルス文庫、第三文明社、1995年、202頁
。
- (2)三枝充悳「初期仏教の思想」(下)レグルス文庫、第三文明社、1995年、518頁。
十二縁起を悟ったというのは学問ではない
「釈尊=ゴータマ・ブッダは菩提樹下において十二支縁起(十二因縁)の理法をさとった、というような文は、たといそれに「ウダーナ」一の一−三という資料が添えられていたとしても、仏教学者ー仏教学研究者のあいだからは払拭されなければならぬ。右の記述は、資料論を含む文献学の無知をみずから告白するものであり、したがって当初から仏教学そのものを拒絶しているのであるから。ただ、学ー研究を離れて、一仏教者として自分はそう信じたいというのであれば、どうぞ御随意に、と仏教学は答えるであろう。」(1)
(注)
- (1)三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、97頁。