松本史朗氏
??? 疑問の説=言葉だけが確か ???
松本氏は、十二支縁起説だけ、言葉だけが仏教であるとされる。別の論文をみておく。
「語られた言葉はすべて偽りであるとう理解も、あながち誤っているとは思えない。ただ、言葉が不完全でありすべて偽りであるとしても、言葉だけが確かなものであると考えることも可能なのである。我々の思考というものは、言葉によって初めて明確にされる。思考も感情も明確に言語表現されない限り、とりとめのないものとして過ぎ去ってしまうことが多い。(以下略)」(1)
「私自身は、”まず体験があり、それから言葉がある”とは考えていない。言葉から自由な、言葉を全く含まない、言葉によって限定されていない裸の体験がありうるとは思えないからである。しかし”体験”という語は、普通はそのようなものとして、つまり、全く言語表現されていない、言葉以前の体験、つまり、神秘体験を意味するものとして用いられることが多い。したがって、私はこの”体験”という語を釈尊のいわゆる”悟り”に関しては用いないのである。釈尊の悟りについて私は、
釈尊の悟りは、決して不可説の、言語表現を絶した神秘体験ではなく、言葉と概念による一定の論理的構造をもち、従って、言葉というものから決して切り離すことのできない、明確で知的な(intellecual)認識であった。
と述べ、その知的認識の内容は、十二支縁起説にによって明示される”縁起説”であったと論じた。」(2)
(注)
- (1)松本史朗「正しい仏教はありうるか」
(奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年)44頁。
- (2)同上、44頁。
(評)
松本氏は、独特の言語観を持っている。言葉だけが確かという論理だが、それが唯一の言語観ではない。「言葉」が表現している事実の方が確かなものがあるという論理もある。「りんご」という言葉よりも、実物の「リンゴ」の方が確かであるという見方もある。りんごの説明をされても、味はしない。
仏教は苦悩の解決が重要であった。食べてみないと苦悩は解決しない。うつ病や神経症は大きな苦悩である。説明されただけでは治らない。実践して(これも修行という”体験”)、ある時に、「もう大丈夫だ」と実感する(これも”体験”)。悟りにも、そういう言葉(十二支縁起説)の理解ではない、喜びの体験がある。信じないのならやむをえない。信じる学者ができるだけ、そういう”体験”のあることを学問的に解明していけばよい。しかし、そういう学者が少ないのは日本にとって損失である。
十二支縁起説が釈尊の説でないことは、学界の常識である。確かな論証によって新説が定説をくつかえすことはありえるが、松本氏の方法は、独断・偏見であると他の研究者から批判されている。
釈尊の悟りの体験が先にあった。それで苦悩から救われた。それから、同じ体験をさせて苦悩から解放させようとして実践を説いた。釈尊は、十二支縁起説ではなくて、他の教説で、悟りに導いた。しばらく後になって、弟子たちが十二支縁起説で整理した。その理解だけでは、悟れない。りんごの説明だけでは、満足できない。実物を食べるという行為が必要である、十二支縁起説は苦の四聖諦の集諦、滅諦の部分であり、説明だけであり、実際の悟りではない。説明を受けて喜んだ段階であり、実際に食べた満足はない。喜び、満足の内容が異なる。
八正道の実践をすれば、十二支縁起説でいう「無明」は解消する。その時、説明で理解していた喜びと、実際に悟った(無明が晴れた)喜びは違うのである。
「がんがあります。手術すれば治ります。」という説明を理解しても治らない。理解しても治った喜びは感じない。ここまでは言葉のみである。だが、手術(体験である)をしてもらえば、治ったという安心を得る(これも体験である)。
説明された段階での喜びと、手術が成功した後の喜びは違う。