松本史朗氏

??? 疑問の説=言葉だけが確か ???

 松本氏は、十二支縁起説だけ、言葉だけが仏教であるとされる。別の論文をみておく。
(評)
 松本氏は、独特の言語観を持っている。言葉だけが確かという論理だが、それが唯一の言語観ではない。「言葉」が表現している事実の方が確かなものがあるという論理もある。「りんご」という言葉よりも、実物の「リンゴ」の方が確かであるという見方もある。りんごの説明をされても、味はしない。
 仏教は苦悩の解決が重要であった。食べてみないと苦悩は解決しない。うつ病や神経症は大きな苦悩である。説明されただけでは治らない。実践して(これも修行という”体験”)、ある時に、「もう大丈夫だ」と実感する(これも”体験”)。悟りにも、そういう言葉(十二支縁起説)の理解ではない、喜びの体験がある。信じないのならやむをえない。信じる学者ができるだけ、そういう”体験”のあることを学問的に解明していけばよい。しかし、そういう学者が少ないのは日本にとって損失である。
 十二支縁起説が釈尊の説でないことは、学界の常識である。確かな論証によって新説が定説をくつかえすことはありえるが、松本氏の方法は、独断・偏見であると他の研究者から批判されている。
 釈尊の悟りの体験が先にあった。それで苦悩から救われた。それから、同じ体験をさせて苦悩から解放させようとして実践を説いた。釈尊は、十二支縁起説ではなくて、他の教説で、悟りに導いた。しばらく後になって、弟子たちが十二支縁起説で整理した。その理解だけでは、悟れない。りんごの説明だけでは、満足できない。実物を食べるという行為が必要である、十二支縁起説は苦の四聖諦の集諦、滅諦の部分であり、説明だけであり、実際の悟りではない。説明を受けて喜んだ段階であり、実際に食べた満足はない。喜び、満足の内容が異なる。
 八正道の実践をすれば、十二支縁起説でいう「無明」は解消する。その時、説明で理解していた喜びと、実際に悟った(無明が晴れた)喜びは違うのである。
 「がんがあります。手術すれば治ります。」という説明を理解しても治らない。理解しても治った喜びは感じない。ここまでは言葉のみである。だが、手術(体験である)をしてもらえば、治ったという安心を得る(これも体験である)。 説明された段階での喜びと、手術が成功した後の喜びは違う。