鈴木大拙氏=見性、悟り、禅経験
??? 悟りは確固とした経験である ???
悟りを否定する禅僧や学者が多いが、それは、経験がない人々のいう誤りである。世界的な禅学者、鈴木大拙氏の、悟り、見性、禅経験の説明を見る。一般向けの啓蒙書の中の言葉であるから、わかりやすい。
なお、道元が「見性」を否定する言葉がある(『正法眼蔵』「四禅比丘」巻)が、それは、「見性」の定義が異なる。
心自体が自体を契証する経験
「改めて言うまでもないが、禅の本分は、物自体、あるいは自我の本源、あるいは自心源、あるいは本有の性、あるいは本来の面目、あるいは祖師西来意、あるいは仏性、あるいは聴法底の人、あるいは無位の真人など、さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香をかぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。形も見たり、声を聞くと言うと、聞くものと聞かれるもの、見るものと見られるものとの二つがあって、相対峙することとなる。ところが、心自体の場合では、能所的対峙がない。能者が所者で、所者が能者である。見るものが、見られるもの、見られるものが見るものである。一つが二つに分れて、見られるのでなくて、一つが、一つを、一つと、見るのである。ただ言葉の上に出すときは、一つとか二つとかいうが、心自体の場合には、この種の言い方は当てはまらぬのである。それゆえ、見て見ず、見ずして見るなどと、矛盾したことをいう。それゆえ、また、「心自体」などと言っても、それはもう遅八刻(おそい)といって真向から撃退するのである。」(1)
体得して行動に出るもの
「哲学の、理屈の、詮索に向かう点からいうと、抽象的思索に長けているのは、東洋人よりも西洋人のほうがえらい。それだけ西洋哲学者には、人格として感心すべきものが少ない。いわゆる「哲人」とか「聖者」とかいうのは東洋のほうに多い。
それはなぜかというに、理屈は明白である。「哲学者」の思索は生活そのものに即せぬ。東洋では「哲理」を生きてゆこうとつとめる。「哲理」を霊性の生活面から導き出さんとつとめる。理から行に移るのでなくて、行から理を開き出さんとする。つまり、東洋では生そのものを美化する。
これをするのは、「無心」とか「無念」とかいう境地を体得しなくてはならぬ。そうしようとたくまぬ心を、まず体得して、それから、思うままに行動する。」(2)
三昧の境地に入ったとき、自然に感得するもの
禅定、三昧が必要である。論理的探求、学問では得られない。鈴木氏は、公案(もちろん坐禅が併習)修行で悟ったから、無字、隻手をいうが、道元のいう只管打坐でも悟る。それは、「現成公案」である。生活そのものを公案とするのである。
道元禅の系統には、「待悟」(悟りを待つということ)を誤解する人が多いが、ここに説明がある。道元が「待悟」を否定するのは、悟道経験がない、ということを意味しない。「待悟」すると、けって、悟らないから、やめよ、という注意である。
「禅には見性ということがある。これは悟りのまたの名で、霊性的直覚である。これは隻手の声なら隻手、無字なら無字、そのものに成りきって、三昧の境地に入ったとき、自然に感得するところのものである。三昧はただ無我夢中になるということでない。その中に自覚ーー霊性的自覚がなくてはならぬ。いわゆる惺々著である。それで見性である。見のない三昧は禅ではない。無字に参じたら無が見えなくてはならぬ。隻手に参じたら隻手の声を聞かなければならぬ。悟りは覚りである。知覚である、理屈ではない。覚りは考えて得られるものでない。すなわち覚ろうと思って覚られるものでない。まず三昧に入る、成りきってしまう、そうするとそれから自然に霊性的直覚が出てくる。悟りを待つということのきらわれるのは、向うに目当てをおくからである。まずやらなければならないことは、三昧の状態を招致することである。三昧の得られんことを憂えて悟らざることを憂えざれ、である。三昧すなわち正受の状態に入れば、公案と自分とは二つに分かれないから、そこにあるものは公案だけである。公案に対するものとしての自分はない。自分が公案と相対して立っているかぎり三昧はない、正受はない、したがって見性の経験はありえない。
見性の経験においては、見が性であり性が見である。性を見るのでなく、見る者がそこにあるのでない、また見られる性があるのでない。見即性、性即見、ここに見性の経験があるのである。見即性、性即見というのも、要するに、三昧(正受)の状態そのもの、絶対的現在そのものであるといってもよいが、そこに見または知または覚なるものがあることを忘れてはならぬ。絶対的現在は哲学的語彙であるが、ここで借用する。」(3)
禅経験は対象、主観のない経験
禅経験は対象(客観)も主観もない経験である。このゆえに、禅者は、「自己を忘るる」という。道元の「現成公案」にも、この言がある。言葉以前の経験である。初期仏教で、解脱した人が「もはや再生はない」というのも、この経験による。自己がないから、再生がない。唯識説で、能所のない「無分別智」をいうのも、それが、禅経験と同じであるからである。悟りの経験は、過去の全仏教を通貫している。これを否定するのは、仏教の真相を理解できない。
「禅経験は対象のない、したがって主観のない経験である。そんな経験があるものかといえば、そうもいわれる。しかし経験というは言をもって言を遣(や)るので、第二義に落ちたことなのである。圜悟が「道を見れば即ち言を忘る」というのも、あるいは「情塵・意想・計較・得失・是非・一時浄尽」というも、澄観が「道本無言」というのもみなこの端的をさすのである。この経験があってから、すなわち「自然に会し去る」ことがあってから、「言に因って道を顕す」ということがあり、「言語は是れ道を載するの器」ということがある。つまり、「言」はあとからの話で、その前に「道」すなわち禅経験をつかまなくてはならぬ。「道」というも、早くすでに第二義に堕在する、「我に第一機を還し来れ」というその第一機も、そういうときすでに白雲万里、もうそこにはないのである。公案という対象観念が生活圏内に入り来たって、「仏」は「麻三斤」となる。ここに那一点が出来るなどと、そんなまどろこしい話ではないのだ。洞山の「麻三斤」は禅経験の丸出しである。これは仏だの、西来意だの、公案だの、合致だのいう那一点出生以前のものだ。これは個々の対象経験に先行する経験だ。」(4)
「禅経験は確かなもの」
学者の中には、悟りはあいまいなものであるから、道元は、悟りを重要なものとしない仏法を主張したというが、誤解である。鈴木大拙氏がいうように、悟りは明々白な経験である。道元が、厳しく他者を批判するのも、確かな悟り経験があるためである。悟り経験が確固としたものであるからである。
「悟りは悟った者のみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの証認をも必要としないものである。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。なぜかというと、懐疑主義そのものがそもそも悟りをもたなければ成立しないもので、いいかえれば、悟りが懐疑というものを仮に存在せしめているからである。懐疑主義者はいったい自分が智に訴えて合理化するその理路と自分とが一体になっているこの事実までは論難し去ることはできないのである。懐疑者は悟りを得て初めて成功するが、この場合、彼は彼のスケプティシズムを否定することになる。換言すれば、悟りを主張するのである。したがって、当然、悟りを得た人々は、権威をもって語り、いかなる反対者や懐疑者にも、その根拠を譲ろうとしない。禅者のある一人のいわく、「われは天龍の一指頭の禅を得たが、一生これを使い用いてもなお使いつくすことはできない」と。また、あるいは「たとえ釋迦、達摩が現われて、否といおうが何といおうが、真向から三十棒をくらわすぞよ」と断言する。」(5)
(注)
- (1)鈴木大拙「東洋的な見方」(新版鈴木大拙禅選集11)、春秋社、 1992年、58頁 。
- (2)同上、29頁。
- (3)鈴木大拙「金剛経の禅、禅への道」(新版鈴木大拙禅選集4)、1991年、春秋社、92頁。
- (4)同上、236頁。
(あとがき)
多くの僧侶や、道元を研究する学者は、「道元が、悟り、見性、解脱体験を否定した」というが、誤解である。鈴木大拙氏がいうように、悟りは坐禅して三昧に入った修行者が、確固として経験するものである。深い禅経験を知らない者が、自分の知解、信仰、偏見で否定しているのである。
(10/22/2003、大田)