鈴木大拙氏=見性、悟り、禅経験

??? 悟りは確固とした経験である ???

 悟りを否定する禅僧や学者が多いが、それは、経験がない人々のいう誤りである。世界的な禅学者、鈴木大拙氏の、悟り、見性、禅経験の説明を見る。一般向けの啓蒙書の中の言葉であるから、わかりやすい。
 なお、道元が「見性」を否定する言葉がある(『正法眼蔵』「四禅比丘」巻)が、それは、「見性」の定義が異なる。

心自体が自体を契証する経験

体得して行動に出るもの

三昧の境地に入ったとき、自然に感得するもの

 禅定、三昧が必要である。論理的探求、学問では得られない。鈴木氏は、公案(もちろん坐禅が併習)修行で悟ったから、無字、隻手をいうが、道元のいう只管打坐でも悟る。それは、「現成公案」である。生活そのものを公案とするのである。
 道元禅の系統には、「待悟」(悟りを待つということ)を誤解する人が多いが、ここに説明がある。道元が「待悟」を否定するのは、悟道経験がない、ということを意味しない。「待悟」すると、けって、悟らないから、やめよ、という注意である。

禅経験は対象、主観のない経験

 禅経験は対象(客観)も主観もない経験である。このゆえに、禅者は、「自己を忘るる」という。道元の「現成公案」にも、この言がある。言葉以前の経験である。初期仏教で、解脱した人が「もはや再生はない」というのも、この経験による。自己がないから、再生がない。唯識説で、能所のない「無分別智」をいうのも、それが、禅経験と同じであるからである。悟りの経験は、過去の全仏教を通貫している。これを否定するのは、仏教の真相を理解できない。

「禅経験は確かなもの」

 学者の中には、悟りはあいまいなものであるから、道元は、悟りを重要なものとしない仏法を主張したというが、誤解である。鈴木大拙氏がいうように、悟りは明々白な経験である。道元が、厳しく他者を批判するのも、確かな悟り経験があるためである。悟り経験が確固としたものであるからである。 (注)

(あとがき)
 多くの僧侶や、道元を研究する学者は、「道元が、悟り、見性、解脱体験を否定した」というが、誤解である。鈴木大拙氏がいうように、悟りは坐禅して三昧に入った修行者が、確固として経験するものである。深い禅経験を知らない者が、自分の知解、信仰、偏見で否定しているのである。
  (10/22/2003、大田)