鈴木大拙=学者が悟りを否定するのは言い過ぎ
??? 疑問の説(1)=自分の「信仰的独白」を学問とする ???
学者が見性体験を否定するのは「言い過ぎ」
宗門の学者は、明治以来、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、という。その手法が、昭和の「正信論争」以後も、現代まで変らない、と佐橋法龍氏はいう。
「反対意見」→「宗学者への批判」
昭和正信論争以前=佐橋氏から批判
昭和正信論争以後=佐橋氏から批判
道元には、悟道体験を強調する言葉が多い。深い参禅経験のない学者が己の信仰・信念から悟りを否定することを鈴木大拙氏も批判。
経典・禅者の語を正確に解明せず己れの「信仰独白」におちる学者
学者や僧侶は、自分で深い宗教体験もないのに、自分の信念や信仰で、悟りを否定する人が多い。それは「言い過ぎ」である。鈴木大拙氏の警告である。
鈴木大拙氏から学者への批判
鈴木大拙博士は、「正信論争」には直接は加わっていないが、その論争と同じ時代に生きた禅学者である。
悟り体験を否定すべきではないという。
「禅に見性ということが説かれる。ちょっと考えると、何か性なる物があり、それを外から見るのだとなろう。どうしても両頭に走ることになる。両頭になると、主客相対の世界で、もう手遅れである。主客の対立のなき鑑覚、これをどうして手に入れるか。それで禅者の言葉をかりてくると、「見が性で性が見だ」ということになるのである。主客両頭の世界ではこれは不可能事である。経験のできぬ事である。それで文字に執するなと、禅者は繰り返していうのである。言語学者、論理家、解釈学専攻者、その外、言語の世界以外に出ることを好まぬ研究家は、どうしても「祗如今鑑覚」の真の消息に接することができぬ。できぬといって、そんな消息はないと主張するのは、言い過ぎというものである。」(1)
道元禅師が「「四禅比丘」巻で「見性」を否定したと強く主張する研究者がいるが、真実を解明することを社会から期待される学者たるもの慎重に読んで欲しい。それは「悟り」体験の否定ではない。
悟りの体験を表明している者が釈尊以来数知れず、また禅者も表明している。実は、鈴木大拙氏も、悟りの体験者である。実地の修練をしない文字研究だけの学者が、悟りの体験を否定するのは、言い過ぎである。それが鈴木大拙氏の警鐘である。
(注)
- (1)鈴木大拙「東洋的な見方」(新版鈴木大拙禅選集11)、春秋社、 1992年、114頁
(11/06/2003、大田)