池田練太郎氏

??? 疑問の説=体験より思想体験より思想 ???

 池田練太郎氏(駒沢短期大学)は、仏教は、体験よりも言葉を重視したのがだという。
 池田氏は、宗教は「言葉による伝達・考察・理解である」という独自の宗教観(そういうことが好きだという学者にありがちな傾向に影響された文字のみをとるという二元観)を絶対視しておられる。多くの学者が、仏教が文字のみとは認めていない。池田氏の仏教は、西田幾多郎がいったが、宗教を論じて宗教ではないものになっている可能性があるであろう。現代人の苦悩も、「言葉による伝達・考察・理解」だけでは治らないが、宗教的実践によって治るものが多い。宗教には、論理を超えたものがある。それを認めないようでは、宗教の全体(思想だけではなく)を学問として解明できないのではないか。
 経典には、実践でしか伝わらないという主張をした言葉もある。それを無視、否定する。ご自分の哲学で。学問のよろこびをとる。こういうのを大乗仏教は「自利」のみと批判したはずです。
 当時は、飢饉が多く僧侶が托鉢で食を得ることも難しかった。十二支縁起説のみだけを言うのが仏教ならば、お布施する者は少なかったであろう。十二支縁起説が実際に実現するためには、八正道の実践が必要である、人は、意識(思考)により、苦が起こることを頭で理解しても、理解するだけでは、苦は解消しない。正念、正定などの実践が伴わないと現実には、無明は解消しない。実践しないものは、十二支縁起説の「見」に執著しているから、無明が晴れることはない。自分が学者として給与をもらうという恵まれた環境になるから、世界宗教となるような仏教が十二支縁起説の考察、理解だけで成立するという見を起こすのである。そんなもので、カースト制あり、飢饉あり、悲惨な社会で、宗教教団として生き残れたはずがない。自分で、今、その説で、人々に説いてみれば、その誤りがわかるはずである。今、人々に受け入れられないものでは、当時ではなおさらである。当時の方が苦悩がひどいから。

 二つ、たとえで、人間の営みは、文字だけでは伝わらないものがあることを主張しておこう。
 あるA国に「稲」について、書いた書物が残された。今は、その国には、稲の現物は、なかったが、学者たちは、そこに文字で書かれた稲の形、味、大きさなどから、稲とはこういものだと思いこんでいた。それを、その国の人々に教えていた。その国には、「稲」の文字の研究書だけがあった。それを理解はしていた。
 別のB国には、学者はおらず、稲の栽培をする農夫のみがいた。そこでは、文字によらず、現場での指導で、稲作技術が代々伝えられた。今でも、それが生きている。A国には、稲の書物のみがある。B国には、稲の書物はないが、稲作技術と生きた種がある。ある年、世界は飢饉になった。A国の国民は、食べるものがなく、死亡するものが多かった。B国では、稲があったので、飢えて死ぬものはなかった。
 第二のたとえ。医学書が多数ある。その影に無数の実践(診断、投薬、手術、治癒)がある。医学も言葉だけが伝達されるのではない。診断、投薬、手術の実践が伝えられるものである。医学書を書くばかりで臨床を行わない医者のみでは治らない。臨床を行わない医者は後継者も育てられない。一冊の本も書かないが、実際に多くの手術を行う臨床医も重要である。その人は、その手術のノウハウを後継者に伝達できる。それは、文字ばかりではない。体験が多く含まれている。
 仏教も人々の苦悩を救う側面が重要である。苦の四聖諦が重視されたのだから。そこには、文字だけ(学問的喜び)では伝えられない実践、実践で得られる喜び(宗教的安心)がある。文字、思想の考察、理解は、知性をほこる学者には喜びがあるが、学問する時間のない者には、そういう理解とは違う喜び、安心を求める。そういう側面が仏教にはある。