酒井得元氏
坐禅以外に何も目的を持たない
祗管打坐(坐禅)する以外に仏道の目標はない、という説である。
「つまりこの自分というものは、光明蔵の中にあって、光明を息吹いているのである。それどころか、全身の全てが仏光明であって、日常生活のあらゆる行動、喜怒哀楽、全て仏光明であった。したがって仏教者というものは、この真実が本当に信ぜられていなければならない。本当に信ぜられていなければ、彼等には、本当の仏道修行はあり得ないのである。これが信ぜられないならば、信ぜられるまで、徹底的に参究しなければならない。」(1)
「本来の真実であってみれば、目標などあろう筈はない。結局、真実を純一に実修し実証するように工夫努力することである。つまり純一に祗管打坐を努力することであった。祗管打坐するより外には何ものもあり得ないのである。」(2)
解脱体験というのはない
「解脱とはこの中道一切法の実態を、指摘しようとする言葉ではあっても、経験ではなかった。繰り返すまでもなく経験されたものは、虚妄分別内のことであったのである。即ちそれは人間の生活活動内のことでそれ以上のことではあり得なかったからである。この一切法中道の経験を超越したものという実態を、能所a亡・主客合一という概念で表現するのである。」(3)
白隠の見性は失神、白隠は外道では
酒井氏は、臨済宗の白隠を批判する。彼の師は、白隠のことである。この文の前を受けている。
「然し彼の師の非難は、結局、人間性の範囲内のことであり、その見性は特殊的な限定であったのである。故に、我々はこの攻撃において彼師自身こそ、仏法を益々遠ざかるべき努力した、猪突猛進の附仏法の外道族でなければ幸いである。」(4)
「分別性の極限に至って失神する身心脱落に至っては、また何をか言わんやである。即ち彼師にあっては、その失神が身心脱落であった。それは厳密な意味においては、全く身心脱落どころではない。生活圏内のことである。」(5)
(注)
- (1)酒井得元「光明蔵三昧」大法輪閣、平成3年、391頁。
- (2)酒井得元「光明蔵三昧」大法輪閣、平成3年、392頁。
- (3)酒井得元「永平高祖の見性批判について」(「道元思想体系7」(道元禅の成立)同朋舎出版、1995年、77頁。
- (4)酒井得元「禅における偏向」(「道元思想体系8」(道元と坐禅)同朋舎出版、1995年、266頁。
- (5)酒井得元「禅における偏向」(「道元思想体系8」(道元と坐禅)同朋舎出版、1995年、267頁。
(大田による批判)
坐禅以外は仏道ではないというのは、インド仏教の研究者からいえば、誤解もはなはだしい主張であろう。インド仏教には、苦の四聖諦もあり、縁起もあり、煩悩の捨棄も、解脱もある。坐禅のみという解釈をするから、そのような道元禅は外道(仏教ではない)であると「批判仏教、批判宗学」の研究者から攻撃される。問題は、道元禅師がそのような誤解をして、インド仏教とは異なる仏教を創始したのか、それとも伝統宗学の提唱者の道元誤解かということである。
坐禅することのみが仏教であるというと、煩悩の捨棄、苦の解消、縁起(因果)の探求もしない(6)ということで、釈尊の「因果」「四聖諦」「苦からの解脱」の否定になる。道元禅師は「因果」「解脱」を撥無(否定)することこそ外道であるといった。同じように伝統宗学は縁起も否定すると、「批判仏教、批判宗学」者から批判される。
道元禅師は、「四禅比丘」巻で、禅定(坐禅)を得て仏果を得たとしてそこにとどまる僧侶を否定したが、伝統宗学は、それに類似する解釈である。ほかに伝統宗学の見解を否定する道元の言葉が数多くある。信、解、苦、苦の滅、縁起、煩悩の捨棄、坐禅を主とする修行、證(解脱、悟り)、慈悲のすべてが道元にも釈尊にもある。そのうちの一部分だけを選択した説を作り上げて固執するのは釈尊のいう「辺執見」であろう。これら重要な教説はすべて関連しあっているので、総合的に解釈して、結局、どこにもとどまらずすべてを実践しなければならないであろう。
伝統宗学では、何も目標を持たないから、自己・他者の苦悩が解決するとも言わない、自己の我見我執を捨てるとも言わない、他者の苦悩を救うとも言わない。ただ、僧堂の中で自分の坐禅をするだけである。僧堂の外で、人々が苦しんでいても知ったことではない。出家して僧堂に入らないのが悪い。これが坐禅のみしか目標がないという説のありかたであることになる。
見性体験は、大乗仏教の経典でしばしば出てくる「無生法忍」「無分別智の発得」と同じだと思われる。その分析は、竹村牧男氏の「唯識三性説の研究」に詳しい。見性体験を「失神」などと同一視するとは、誤解もはなはだしい。原始仏教でも、想受滅、滅尽定などがあり、それとの比較研究で、「解脱」ということが釈尊の仏教にもあったことが明らかになるだろう。
道元が「無所得・無所期(悟)」というのを、何も目標がない坐禅と解釈されるが、それも誤解であろう。道元の「無所得・無所期」は大乗仏教の「無住処涅槃」と同じであろう。信もあり、坐禅もあり、因果の探求、苦の探求、苦の解消、煩悩(偏見、エゴイズムなど)の探求もあり、悟道(解脱、無生法忍、見道、見性、ともいう)もあるが、そのどこにも留まらず、もう修行が終わったと自己満足せず、他者の救済(慈悲)行の中でさらに自己の探求をどこまでも継続していくというのが、無住処涅槃である。苦の探求、坐禅、縁起の探求、解脱(悟り)がないということではない。途中での目標が多く主張される。大乗仏教は特に慈悲を強調した。道元もこれらすべてを主張している。目標もなく、形だけの坐禅をして、他者が苦しむのを傍観するのが道元の仏道でも、釈尊の仏教でもないだろう。
信、坐禅、煩悩の探求、解脱、慈悲、無住処涅槃などについて、原始仏教、大乗仏教、道元禅師、白隠禅師に共通点が多い(7)。語録などの言葉を自分の独断で一部だけを取り、独断的に解釈したり、絶対視せず、他者の苦の解決になるのかという観点から解釈すべきである、と道元禅師はいう(8)。何も目標がない、などと強く主張し、実際に苦悩する人々にアドバイスしようともせず、ただ自分は坐禅するだけ、というのでは、とても「利生」を思う説とは言いがたい。道元禅師が誤解されている。
深く探求せず、浅い自分の目線でみて、自分に都合のよい解釈、選択的抽出によるゆがみで、偉大な宗教者が矮小な者におとされている。道元禅師や白隠禅師や釈尊の仏教を学問的にもあきらかにしなければならない。学者は、実践を否定することが学者としての自分の利益になるという無意識、意識的な我利に汚染されず(そこを釈尊も、道元禅師も白隠禅師も強調する)、偏見を持って自己の好きな「自分の仏教」を捏造せず、文献によって歴史的に存在した仏教の真相をあきらかにしてほしいと願う。
(注)
- (6)自己他者の苦の解決が目標でも、途中に小目標があってもよいだろう。とどまらない限り。原始仏教・大乗仏教に階位の教説、法華経の化城、長者窮子の教説などが、達成可能な途中の目標で指導していくことを教えている。道元にも階位の教説がある。
- (7)白隠は慈悲行を実践した。庶民に説いて庶民を救済した。何も目的を持たない坐禅をして庶民に説かない禅を主張する者が庶民の救済をする白隠を批判できるのか疑問である。道元はやむを得ず越前に行って実際、慈悲行が希薄に見えるが慈悲行を強調する言葉が多い。道元の仏道にも慈悲の実践の目的があるのではないか。道元の解釈が誤解されているのではないか。
(参考)白隠の慈悲
- (8)随聞記に次の言葉がある。祖師の言葉を絶対視する教条主義ではいけない、「利他」のためになるほうを採用せよ、という、利他の重視である。
「問うて云わく、仏教の進めに順って、乞食等を行ずべきか、如何。
答えて云わく、然るべし、但、是は、土風に順って、斟酌あるべし。なにとしても、利生も広く、我が行も進むかたに、就くべき也。是等の作法、道俗不浄にして仏衣を着て、行歩せば、穢れつべし。亦、人民貧窮にして、次第乞食も、叶うべからず。行道も退くべく、利益も広からざるか。只、土風を守り、尋常、仏道を行じ居たらば、上下の輩、自ら供養をなすべし。自行化他、成就せん。是の如きの事も、時に臨み事に触れ、道理を思量して、人目を思わず、自の益を忘れ、仏道利生の方によき様に計うべし。」(「道元禅師全集」第7巻、春秋社、1990年、82頁)