松本史朗氏(3)

??? 疑問の説(1)=十二支縁起を思惟することのみが仏教 ???

=根拠は、仏典の他の教説との関連を深く考察する学問的手法によらず、自分の哲学・信仰から

  • 自分の信仰・哲学の方を重視し、経典の多くの言葉を否定する
     松本氏は、自分の仮説に合わないから、次のように、縁起説まで、「致命的な困難を内含している」と否定する。縁起説については、平川彰氏、三枝充悳氏、森章司氏などが、否定せずして、その意義が解明されつつある。それが着実につみかさねられてきた学問の成果である。
     だが、松本氏は「致命的な困難を内含している」と感じるという。自分の「縁起説」や「無明」の解釈や仮説がおかしいからとは思わない。それほど、自分の哲学・信仰を重んじて、経典を軽んじている。経典の文字の選択的抽出、独自の解釈によって、新興宗教を起こす「宗教者」ならご随意に(三枝充悳氏の批判))であるが、学者としてはふさはしくないとされる。
     次が、十二支縁起説に対する松本史朗氏の解釈である。  松本氏の独自の主張を箇条書きにすると、ここでは、次の諸点であろう。  松本氏は、初期仏教経典の教説を、これまでの学会の積み重ねを無視して、自分の信仰・哲学によって、否定する。それでも自分では「仏語」を重視する態度だとみておられる。これは、十二縁起説に関連する独自の解釈である。まず、これについて、学会の積み重ねによるおおかたの誠実な研究者による通説からの反論を簡単にみておく。
    (以上のテーマは、多くの研究があり、釈尊は十二縁起を悟ったのではないというのが定説のようなものです。特に三枝氏は、このテーマの詳細な研究により松本氏のような十二縁起説偏重を激しく批判しています。それでも、松本氏は、それを受け入れないでしょうが。だから、「不毛の論争」が続くわけです。その間に、権力を持ち自分の考えを固執する人によって、弱い人が差別され、いじめられ、争いが起こり、心を病み、自殺します。仏教は「苦」を救うものではないのですか。十二縁起説を思惟し、論争し、それに同意しない人を排斥することなのですか。
     対立する学説は、少しづつ、整理して掲載します。大学で、学界で何が行われているか、多くの人が知るべきです。)