松本史朗氏(2)
学問は主観的
学界の研究成果を無視し自分の主観的な仮説・理解の方を重視し、経典の言葉を選択し解釈し、主観に合わないものは否定する
松本史朗氏(駒沢大学)の学問への態度は次のようである。彼は、学問は主観的であるとして、学界の研究の積み重ねを否定する。
「このジャイナ教の相対主義的な態度こそ、客観的で学問的だという通念が現在の学界をおおっている。これに対して私は学問とは根本的に主観的なものだと主張する。テキストを読むということは、最終的には主観的であるとしても、ある段階までは客観的であり、この客観性をギリギリのところまで追求するのが学問だという意見もあるだろう。かつて私もこの説を信奉していた。しかし”理解する”ということが最終的に主観的であり、啓示的であるとすれば、それは本質的にまた全面的に主観的であるといわなければならない。学問の客観性を主張することは学者という地位や身分の自立性を主張することと同じだ。私は、近代仏教学が学問の客観性という美名のもとで、仏教を単に曖昧なものとしてきたばかりか、少なからず誹謗してきた面も多かったのではないかと思う。仏教教団というものが、現に存在し、仏教学の発展に責任がある筈の我が国の仏教学者が、釈尊が何をさとったかも自ら言えないとすれば、誠に情無いとしかいえないのではなかろうか。」(1)
「私にとって学問とは、根本的に主観的であり、それ故、価値から自由ではありえない。」(2)
確かに、経典や語録の文字の解釈は、主観が入る。だが、松本氏の研究(?)論文には、もう学問とは言えないような彼の独断的仮説が多くちりばめられている。彼の主観に合わない経典の「言葉」は否定するか、仮設に合うように解釈する。
松本氏が、どの程度、教団から重視されているか私は知らないが、伊吹敦氏(東洋大学)によれば、「教団内では多少は注目されている」とされるが、教団も随分危険な状況にあるものである。伊吹敦氏や三枝充悳氏(つくば大学)などから、松本説は、学問ではないとされるほどであるから、松本氏が原始仏教を語るものは「仏教」ではなくて、新興宗教に似た「松本教」であり、松本氏が「道元禅師」を語るものは、道元禅師の仏道解釈ではなくて、「松本宗」と言ってよいものなのである。学問は主観的でよいというのだから、そうなる。松本氏の解釈は、大方の学者が考える学問から外れた、彼だけの主観的な選択・解釈・方法であるから、原始仏教にも、部派仏教教団(八正道、四念処などの修行もあった)にはなかったもので、勿論、道元禅師(最後まで坐禅があった道元禅師をも否定するから)のものでもなく、伝統宗学(これは別の内容の信や坐禅を尊重したが、松本氏は坐禅を否定し十二縁起以外への信を否定するから)でもない。だから、松本氏の仏教は、過去のどの教団にもなかった言葉の選択・解釈であり、一種の”新興宗教”となる。彼の方法は、「学問研究者」ではなくて、「宗教者」の態度であり、方法であり、内容となっている。だから、三枝充悳氏が「ただ、学ー研究を離れて、一仏教者として自分はそう信じたいというのであれば、どうぞ御随意に、と仏教学は答えるであろう」というのであろう。
井の中の蛙、大海を知らず。
駒沢大学あるいは道元をめぐる研究者は、昭和の正信論争にもみられるように、道元禅師の多くの言葉(信、縁起説、出家、戒、定、慧、煩悩の捨棄、苦からの解放、面授、坐禅、見取見などの悪見・二元分別の捨棄、悟り、慈悲行、道得=自己の得たものを文字にする=あり)の中から、「信」のみとか、「面授」のみとか、「坐禅」のみとか、「一つ」を主観的に選択する宗学が「学問」として通用する学会であった。松本氏も主観的に、十二縁起説を「一つ」取るから、似た手法である。この手法は、閉鎖的なグループでは通用しても、日本や世界の研究者は認めない手法であろう。伊吹氏や三枝氏など他の大学の研究者は、そのような、主観的に「一つ」だけを取るような研究はまともな学問とは認めていないかもしれない。「唯一選択説」同志の論争は、「不毛の議論」とされる。
松本氏の説は、原始仏教経典の中から「一つ」を主観的に選択する説であるから、教団は、よく考えないといけない。これほど外部から批判され警告がありながら、もし、教団が、十二支縁起のみを、「釈尊」の仏教として選択し、その眼から「道元禅師」の仏道の解釈として採用し、道元を否定するならば、今後、数十年の後、これまでの教団の歴史において、最悪の出来事と批判される日が来るであろう。なぜなら、自分の知性で十二支縁起説を信じて生きていけばよいとして、経典に記す修行・実践を否定するので、天台本覚思想と同様に、 エゴイズムそのまま、煩悩まみれの堕落を肯定する説に落ちているからである。
昭和の論争は「道元解釈」であった。道元を小さく解釈することは教団の勝手であった。しかし、松本氏は「正しい仏教」とは何かを主張した。これは、宗門だけではなく、すべての「仏教」(原始仏教、大乗仏教とも)研究者との対決である。「釈尊」「仏教」は、日本をはじめ、欧米でも、多くの研究者が研究しており、教団の名誉、地位、利益に影響されず、研究者の己れだけの哲学、偏見を入れずに解明されていくことはあきらかである。松本氏の「仏教」解釈が、自分だけの主観に傾きすぎているならば、その「正しい仏教」観は将来必ずくつがえされるであろう。すでに、つくば大学、東洋大学などの研究者から独断・偏見と批判されていて、松本氏の論理、手法への批判が妥当であることは、しろうとである本会の会員でもわかるほどであるから。
「仏教学者が、釈尊が何をさとったかも自ら言えないとすれば、誠に情無いとしかいえないのではなかろうか。」と松本氏はいう。では、釈尊の悟りを松本氏が自らどう解釈するか、それが、学界の研究の積み重ねを無視した、独断的選択、論理、手法であることを、次回以降、二、三あげておく。(続く)
(注)
- (1)松本史朗「縁起と空」大蔵出版、1989年、78頁。
- (2)同上、99頁。