松本史朗氏(1)

十二支縁起を思惟することのみが仏教であり、悟り・禅定は仏教ではない

 松本史朗氏(駒沢大学教授)は、禅定や悟りは、仏教ではない。十二支縁起のみが仏教だという。仏典の言葉を重視するからだという。

解脱の否定


(大田短評)  松本史朗氏の方法は、伊吹敦氏が、下記のとおり、厳しく批判するように、上記の「解脱と涅槃」も、経典の資料に基づいて、真意を理解しようという態度が弱く、自分の仮説、哲学(つまり先入見)を設定して、独自の意味づけをして、「解脱」「涅槃」を我論だとして、仏教ではないとしている。三枝充悳氏や森章司氏など、他の研究者が「解脱」「涅槃」を経典の文字をなるべく否定せず、その当時の意図を理解しようという態度があるのに、松本氏にはその態度が弱い。  松本氏は、(A)では、経典の言葉を重視するといいながら、(B)の文では、仏典にある「悟り」や「禅定」の言葉は否定する。つまり、先入見があり、それで、仏教は「十二支縁起説のみ」という命題を絶対として、それ以外の仏典の言葉を否定するのである。彼のいう「言葉とは仏語である。仏教である。それは仏から我々にすでに与えられているものであり、我々が少しでも勝手に変更できるような代物ではない。」というのは、彼の仮説にあった「言葉」(十二支縁起説のみ)のみを選択して、それには変更を加えないが、解釈は彼の仮説にあうように解釈する。原始仏教経典だけ、しかも、自分の先入見で選んだ「言葉」だけを絶対に「正しい」とする方法である。「悟り・解脱」「禅定・正定・瞑想」などの多くの言葉を捨てる(それも仏語であるのに)のである。全く、偏見である。十二支縁起の中に「取」があって、こういうのを「見取見」だと思う。それが、自他の苦や闘争を生むので、やめよというのが、十二支縁起の教えだと思うが、原始仏教の研究者の確認をお願いしたい。
 松本氏が仏教ではないと否定される、他の仏典の言葉も、十二縁起説と会通する解釈も多くの研究者によって積み重ねられていて、矛盾ではない。言葉だけではいけないという仏典の「言葉」も多い。松本氏は、「悟り」や「禅定」を嫌い、「知性」「言葉」のみを好む。その好き嫌いの眼で仏典の言葉を取捨解釈するのであり、仏典の言葉をありのままに考察しようという態度ではない。
 こういう方法は、学問ではないと三枝充悳氏(つくば大学)が批判し、伊吹敦氏(東洋大学)が「独断的、恣意的」「原理主義」だと酷評される。松本氏は禅定、悟りをいうのが、「傲慢」だといわれるが、そのような独断的な学問方法で、仏教の修行を否定するのは「傲慢」ではないのだろうか。
 松本説は、学会の研究の積み重ねを無視して、独断的に「十二支縁起説のみが仏教」という命題を絶対視しているが、これが正しくないことは、多くの研究者の研究であきらかになっている。この命題の上にたっての論文はいかに、緻密、詳細であろうとも、仮説の命題が崩壊すれば、いずれ、すべて反故となる運命にある。
 さらに、別に、松本氏自身「十二支縁起」、特に「無明」を完全には理解していないという言葉がある。「無明」が解明できないならば、「十二支縁起」を完全に理解したとはいえない(だから「縁起は難解」という経典がある)。そんなことでは、「仏教は十二支縁起」のみとは断定できない。「禅定」し、「悟り」を得ないと、「十二支縁起」(特に「無明」がおかれたわけ)を理解できないというのが、仏の「言葉」であるかもしれない(そういう経典の言葉が多い)。仏教者(そして禅者)は、「八正道」などの修行で、その実践的解明に数年、二、三十年かけたかもしれない。だが、松本氏は、その実践探求をせず、「無明」が理解できないことを正当化するために、思索のみを用いて、己れの哲学で「無明」を理解したことにして、十二支縁起がわかったことにしてしまった(別の記事(3)参照)。こういうあやうい自己合理化で絶対視する命題「仏教は十二支縁起説のみ」とは、経典に即した学問的解釈とはいえないであろう。(続く)

(注)