松本史朗氏(1)
十二支縁起を思惟することのみが仏教であり、悟り・禅定は仏教ではない
松本史朗氏(駒沢大学教授)は、禅定や悟りは、仏教ではない。十二支縁起のみが仏教だという。仏典の言葉を重視するからだという。
(A)=
「仏教とは、仏の教えである。仏の言葉である。決して我々凡夫の言葉なのではない。唯一の実在(理)とか、不可説の体験(悟)とかがあって、それを我々が言葉で表現できるか否かなどというチャチな問題ではない。言葉とは仏語である。仏教である。それは仏から我々にすでに与えられているものであり、我々が少しでも勝手に変更できるような代物ではない。たとえば「法華経」に、「不自惜身命」と説かれていれば、我々はこの仏語、この真実語を、一字一句も変更することはできない。ただ信じる以外にないのだ。宗教において”言葉”とは、仏の言葉、神の言葉であって、人間の自分勝手な言葉ではない。この点を理解しないと果てしない傲慢、神秘主義に陥る。悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、これら一切は仏教と何の関りもない。宗教において言葉とは、絶対的に与えられるものだ。十二支縁起は、我々に与えられた仏の言葉、仏語なのであって、その言葉なしに仏教はありえない。」(1)
解脱の否定
(B)=
「私は仏教が宗教であることを信じて疑わない。しかもなお、原始仏典といわれるものに、「悟り」と訳されうるような様々の言葉が頻出するのを好ましく思っていない。仏教がいつまでも「悟り」の宗教とみなされるなら、それは仏教に寄生してしまった非宗教性、つまり仏教が荷わされている業なのだ。」(2)
(C)=
「解脱及び涅槃の根本論理は、”アートマン(A)の非アートマン(B)からの離脱、脱却である。このAとBは、端的に”精神”と”肉体”と考えられる。従って、完全な解脱は肉体の捨離によって始めてもたらされるから、一切の解脱思想の唯一の理想は”死”である。」(3)
(注)
- (1)松本史朗「縁起と空」大蔵出版、1989年、56頁。
- (2)同上、52頁。
- (3)同上、219頁。
(大田短評)
松本史朗氏の方法は、伊吹敦氏が、下記のとおり、厳しく批判するように、上記の「解脱と涅槃」も、経典の資料に基づいて、真意を理解しようという態度が弱く、自分の仮説、哲学(つまり先入見)を設定して、独自の意味づけをして、「解脱」「涅槃」を我論だとして、仏教ではないとしている。三枝充悳氏や森章司氏など、他の研究者が「解脱」「涅槃」を経典の文字をなるべく否定せず、その当時の意図を理解しようという態度があるのに、松本氏にはその態度が弱い。
「こうした状況への反動と見なすことができるのが、近年、駒沢大学の一部の学者によって展開された「批判宗学」である。彼らは中国仏教、特に禅が中国的な思想の影響を多分に受けていることに着目し、それに対して厳しい批判の眼を向ける。しかし、禅に代表される中国仏教がインド的ならざるものであることは、今さら言うまでもない自明のことであって、その主張自体は何ら新しいものではない。そればかりか、その議論を見るに、資料の分析から議論を展開しようとせず、極めて独断的、恣意的なものとなっている。
従って、彼らの主張の多くは学問的にはほとんど評価すべきものを含んでいないのであるが、こうしたものが現われた背景には、仏教研究が実存の問題から切り離され、学問のための学問となってしまっているという現実に対する不満があるように思われる。実際、彼らの主張には現在の仏教をいかにすべきかという視点をしばしば窺うことができるのである。しかし、彼らには伝統的な禅修行に基づく人格の陶冶も社会的な実践も見られず、その主張もインド仏教を正当とする一種の原理主義に基づいており、現実に存在している仏教との接点を欠いているため、教団内では多少は注目されているものの、社会的影響力は皆無といってよい。」(1)
「釈尊=ゴータマ・ブッダは菩提樹下において十二支縁起(十二因縁)の理法をさとった、というような文は、たといそれに「ウダーナ」一の一−三という資料が添えられていたとしても、仏教学者ー仏教学研究者のあいだからは払拭されなければならぬ。右の記述は、資料論を含む文献学の無知をみずから告白するものであり、したがって当初から仏教学そのものを拒絶しているのであるから。ただ、学ー研究を離れて、一仏教者として自分はそう信じたいというのであれば、どうぞ御随意に、と仏教学は答えるであろう。」(2)
松本氏は、(A)では、経典の言葉を重視するといいながら、(B)の文では、仏典にある「悟り」や「禅定」の言葉は否定する。つまり、先入見があり、それで、仏教は「十二支縁起説のみ」という命題を絶対として、それ以外の仏典の言葉を否定するのである。彼のいう「言葉とは仏語である。仏教である。それは仏から我々にすでに与えられているものであり、我々が少しでも勝手に変更できるような代物ではない。」というのは、彼の仮説にあった「言葉」(十二支縁起説のみ)のみを選択して、それには変更を加えないが、解釈は彼の仮説にあうように解釈する。原始仏教経典だけ、しかも、自分の先入見で選んだ「言葉」だけを絶対に「正しい」とする方法である。「悟り・解脱」「禅定・正定・瞑想」などの多くの言葉を捨てる(それも仏語であるのに)のである。全く、偏見である。十二支縁起の中に「取」があって、こういうのを「見取見」だと思う。それが、自他の苦や闘争を生むので、やめよというのが、十二支縁起の教えだと思うが、原始仏教の研究者の確認をお願いしたい。
松本氏が仏教ではないと否定される、他の仏典の言葉も、十二縁起説と会通する解釈も多くの研究者によって積み重ねられていて、矛盾ではない。言葉だけではいけないという仏典の「言葉」も多い。松本氏は、「悟り」や「禅定」を嫌い、「知性」「言葉」のみを好む。その好き嫌いの眼で仏典の言葉を取捨解釈するのであり、仏典の言葉をありのままに考察しようという態度ではない。
こういう方法は、学問ではないと三枝充悳氏(つくば大学)が批判し、伊吹敦氏(東洋大学)が「独断的、恣意的」「原理主義」だと酷評される。松本氏は禅定、悟りをいうのが、「傲慢」だといわれるが、そのような独断的な学問方法で、仏教の修行を否定するのは「傲慢」ではないのだろうか。
松本説は、学会の研究の積み重ねを無視して、独断的に「十二支縁起説のみが仏教」という命題を絶対視しているが、これが正しくないことは、多くの研究者の研究であきらかになっている。この命題の上にたっての論文はいかに、緻密、詳細であろうとも、仮説の命題が崩壊すれば、いずれ、すべて反故となる運命にある。
さらに、別に、松本氏自身「十二支縁起」、特に「無明」を完全には理解していないという言葉がある。「無明」が解明できないならば、「十二支縁起」を完全に理解したとはいえない(だから「縁起は難解」という経典がある)。そんなことでは、「仏教は十二支縁起」のみとは断定できない。「禅定」し、「悟り」を得ないと、「十二支縁起」(特に「無明」がおかれたわけ)を理解できないというのが、仏の「言葉」であるかもしれない(そういう経典の言葉が多い)。仏教者(そして禅者)は、「八正道」などの修行で、その実践的解明に数年、二、三十年かけたかもしれない。だが、松本氏は、その実践探求をせず、「無明」が理解できないことを正当化するために、思索のみを用いて、己れの哲学で「無明」を理解したことにして、十二支縁起がわかったことにしてしまった(別の記事(3)参照)。こういうあやうい自己合理化で絶対視する命題「仏教は十二支縁起説のみ」とは、経典に即した学問的解釈とはいえないであろう。(続く)
(注)
- (1)伊吹敦「禅の歴史」法蔵館、2001年、309頁。
- (2)三枝充悳「縁起の思想」法蔵館、2000年、97頁。