松本史朗氏の疑問の説(1)への批判1
??? 疑問の説=
坐禅は仏教ではない ???
批判1=初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した
- 三枝充悳氏の研究からの批判
- 十二縁起は、一部にすぎない
- 四聖諦に道諦があり、道諦は八正道であり、それに正念、正定が含まれていた。初期仏教では、そういう実践が重視されていた。
ここには、批判の概略を記述します。三枝氏の原著の引用文は、次の記事をご覧下さい。
=根拠は、仏典の他の教説との関連を深く考察する学問的手法によらず、自分の哲学・信仰から
松本氏の主張を箇条書きにすると、ここでは、次の諸点であろう。
- ”仏教”とは、一個の知的な哲学あり、信条であり、信仰に他ならない。
- 十二支縁起説のみが、仏の正しい言葉である。
- 無明と行とは、因果同時ではなく、因果異時であり、同時的因果関係など存在しない。他の支も異時しかない。
- 「悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、これら一切は仏教と何の関りもない。」
- 「縁起説といえども、ある致命的な困難を内含しているのではなかろうか。」「結論は、縁起説とは要するに、一個の哲学であり、信仰であり、あるいはひとつの明確な生きる態度とでも言うべきものにしかすぎないということであった。」
批判1=初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した
=十二縁起は、一部にすぎないという三枝充悳氏の研究からの批判
初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した、つまり、仏教は「苦」の探求、解決が重要な目標であった、十二縁起は、一部にすぎないという研究からの批判である。
ここには、要点だけを箇条書きに記述するので、三枝氏の言葉は、上の記事をご覧いただきたい。
- 十二支縁起説は、最初期の経典にはなく、かなり、後に成立した。
- 初期仏教は、「四聖諦」と「八正道」を重視した。苦の解決が仏教の重要な目標であった。十二支縁起説の順観と逆観は、四聖諦のうちの苦諦、苦集諦、苦滅諦にあたるが、苦滅道諦を欠く。従って、十二支縁起説だけでは、現実の苦は解消されない。苦の原因である「無明」も滅しない。
- 苦の滅、無明の滅のためには、道諦の修行が必要である。それは、八正道としてまとめられた。四諦説、八正道としてまとめられる前には、実質、それに相当する教えは釈尊から説かれた。
だいたい、学会の積み重ねは、上記のようであるが、これに対して、松本氏は、次の点について独自の見解を取るのが特徴であることがわかる。
- 経典の文字を広く研究してきた学会の成果を無視して、「十二支縁起説」だけが仏教であるとする。他の教説(四諦説、八正道説、解脱など)をすべて否定する。
- 「悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、これら一切は仏教と何の関りもない。」というが、四諦説、八正道説で、初期仏教教団は、正定・正念などの修行、解脱(悟り)を重視した。それでも、それは、仏教ではないという。
- 「縁起説といえども、ある致命的な困難を内含しているのではなかろうか。」「結論は、縁起説とは要するに、一個の哲学であり、信仰であり、あるいはひとつの明確な生きる態度とでも言うべきものにしかすぎないということであった。」
松本氏は、縁起説は、哲学、信仰であるという独自の解釈をする。仏教は、十二支縁起説のみと主張しながら、「無明」が理解できないので、独自の解釈で、縁起説を骨抜きにする。ここに、松本氏の独特の解釈や「信」が入り込んでいる。
以上が松本氏の説の特徴だが、多くの研究者が解明してきたように、無明、十二支縁起説と、四聖諦、八正道説では、両立する教説である。十二支縁起説も哲学、信仰におとしめなくても、確かに妥当する教説である。八正道の修行をすれば、解脱して、無明から晴れて、苦から解放されるとするのが、初期仏教経典であるからである。松本氏のように、独自の解釈をする必要はない。松本氏の解釈は、経典の大部分の言葉を否定して、一部だけを取り上げ、それを経典の精神によらず、自分の哲学、信仰で解釈する方法である。
ほかの点にも、松本氏独自の(学問を無視したような)解釈があるので、さらにほかの点もみておく。
現代人の苦悩も仏教の実践(坐禅が中心)によって、解決できる。初期仏教の経典にも、それを読み取ることができる。
仏教学者の方々が何をしているか、みています。他の学者からは「不毛の議論」「独断」「原理主義」「学問ではない」というようなことが行われています。そういうところには、現代の社会に貢献するものはないでしょう。苦悩する人が近寄れるところではありません。
松本氏は、初期仏教経典の教説を、これまでの学会の積み重ねを無視して、自分の信仰・哲学によって、否定する。これは、その一つである。まず、これについて、学会の積み重ねによるおおかたの誠実な研究者による通説からの反論を簡単にみておく。
松本氏の説は、他の仏教研究者のすべて(といってよいくらい)を否定するものですから、他の研究者がそれに反論するでしょう。本会では、同じような反論はしません。能力も時間もなく、「不毛の議論」だからです。(しかし、仏教研究者は正面から反論しなければならないでしょう。自分の学問を否定されているのですから。)
しかし、本会は、同じようなことはしません。人々の現実の苦悩の解決、臨床的な苦悩の解決には全く関係ないからです。本会は次のような、人々の「苦悩解決の実践」に貢献する領域を中心に研究します。
仏教は苦の解決をめざすものである、そのためには、正定や正念などの修行(後世の坐禅と類似)が必要であり、それによって、自己の真相を悟るということがあり、それが初期仏教では、解脱と呼ばれたこと。そのことによって、苦から解放される。そういう苦の探求・解決、悟りは現代の禅でも同様に可能であること。そういう肝心の、臨床的な苦の解決の方面の研究をしていきます。