松本史朗氏の疑問の説(1)への批判1

??? 疑問の説=

批判1=初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した

ここには、批判の概略を記述します。三枝氏の原著の引用文は、次の記事をご覧下さい。
=根拠は、仏典の他の教説との関連を深く考察する学問的手法によらず、自分の哲学・信仰から

 松本氏の主張を箇条書きにすると、ここでは、次の諸点であろう。

批判1=初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した

=十二縁起は、一部にすぎないという三枝充悳氏の研究からの批判 

 初期仏教は「四聖諦・八正道を重視」した、つまり、仏教は「苦」の探求、解決が重要な目標であった、十二縁起は、一部にすぎないという研究からの批判である。
 ここには、要点だけを箇条書きに記述するので、三枝氏の言葉は、上の記事をご覧いただきたい。  だいたい、学会の積み重ねは、上記のようであるが、これに対して、松本氏は、次の点について独自の見解を取るのが特徴であることがわかる。
 以上が松本氏の説の特徴だが、多くの研究者が解明してきたように、無明、十二支縁起説と、四聖諦、八正道説では、両立する教説である。十二支縁起説も哲学、信仰におとしめなくても、確かに妥当する教説である。八正道の修行をすれば、解脱して、無明から晴れて、苦から解放されるとするのが、初期仏教経典であるからである。松本氏のように、独自の解釈をする必要はない。松本氏の解釈は、経典の大部分の言葉を否定して、一部だけを取り上げ、それを経典の精神によらず、自分の哲学、信仰で解釈する方法である。
 ほかの点にも、松本氏独自の(学問を無視したような)解釈があるので、さらにほかの点もみておく。
現代人の苦悩も仏教の実践(坐禅が中心)によって、解決できる。初期仏教の経典にも、それを読み取ることができる。


 仏教学者の方々が何をしているか、みています。他の学者からは「不毛の議論」「独断」「原理主義」「学問ではない」というようなことが行われています。そういうところには、現代の社会に貢献するものはないでしょう。苦悩する人が近寄れるところではありません。

 松本氏は、初期仏教経典の教説を、これまでの学会の積み重ねを無視して、自分の信仰・哲学によって、否定する。これは、その一つである。まず、これについて、学会の積み重ねによるおおかたの誠実な研究者による通説からの反論を簡単にみておく。
 松本氏の説は、他の仏教研究者のすべて(といってよいくらい)を否定するものですから、他の研究者がそれに反論するでしょう。本会では、同じような反論はしません。能力も時間もなく、「不毛の議論」だからです。(しかし、仏教研究者は正面から反論しなければならないでしょう。自分の学問を否定されているのですから。)
 しかし、本会は、同じようなことはしません。人々の現実の苦悩の解決、臨床的な苦悩の解決には全く関係ないからです。本会は次のような、人々の「苦悩解決の実践」に貢献する領域を中心に研究します。

 仏教は苦の解決をめざすものである、そのためには、正定や正念などの修行(後世の坐禅と類似)が必要であり、それによって、自己の真相を悟るということがあり、それが初期仏教では、解脱と呼ばれたこと。そのことによって、苦から解放される。そういう苦の探求・解決、悟りは現代の禅でも同様に可能であること。そういう肝心の、臨床的な苦の解決の方面の研究をしていきます。