学問への疑問

 者が、どんなことを主張しているか、その一端をご紹介します。一般人の苦悩を無視した「不毛の議論」が続いています。これまで、仏教において坐禅、悟り、苦の救済の実践を肯定・否定する領域では、次の学説が支持されてきました。よく検討してみると、社会に背を向けて、坐禅堂の中で自分だけ坐禅しているか、研究室の中で研究、思索していればよい、それ以外のこと(とええば、自分のエゴイズムの探求、他者の救済)はしないでよいことになっています。そんなことを釈尊や道元が言っているでしょうか。

a)坐禅は目的がないという説(=成道・悟道否定説、苦の四聖諦の否定説)

 禅を肯定するが、坐禅は目標を持たない、という説が強く主張された。
 坐禅は何も目的をもたないのが尊い、という学説。坐禅のみが悟りだというから、坐禅していない時は、仏道ではないことになる。
 坐禅によって、人々が苦悩から救われるとも、自己のこころの深い洞察をするともいわない、本当の自己を悟ることができる、ともいわない。自分のエゴイズムをも批判しない。自己洞察も、他者の苦悩救済という社会との接触も積極的に持とうとしない思想を持っている。

b)仏教は縁起のみ、あるいは、アートマン論、基体説だけで決め付ける説(=坐禅外道説)

 教は、十二縁起を思惟することである、という学説(注1)。坐禅は仏教ではないと、坐禅を否定する説である。この説では、仏教は禅ではなく、縁起を思惟、理解することのみであるから、初心者への方便であろうとも、動機づけであろうとも、他者に依存せず自己に救いのもとがあるということを方便でいおうとも、少しでも、アートマン、基体説のようなことを言えば、その人は仏教ではないと完全否定する学者がいる。
 このような学説も、仏教は、人々の苦悩を救うものだといわない。実践によって自己洞察が深まるものがある、ともいわない。思想だけを問題とする。
 ゴイズムをも批判しない。ただ、縁起思想を思惟するだけ、無我さえいえばいいというわけである。戒をやぶっても、慢心、傲慢、いじめ、エゴイズムをまき散らしても、問題ではなく、縁起説を理解し、アートマンを否定してさえおればいいことになる。他者の救いは関係ない。その人が、今、何をなしているのか、何をなしたか、その行為・実践をみようとしない。

 ちらも現代人の苦悩を救うこと、他者に害をなす行為(自己も、他人も)の批判などに無関心の学説です。
 ほかにも類似の種々の説がありますが、今は、有力な二つの学説によって、問題の概要を提起しておきます。

坐禅、悟道、苦の解放、エゴイズム批判を支援する研究者が少ない
 期(原始)仏教経典でも、釈尊は、無明が苦の原因である、無明から解脱すれば、苦悩から解放される。そのために修行しなさい、と説いたものもあります。ここまでの説は、縁起説(種々の縁起説の中の一つ)、四諦であり、修行しないでも、理解できます(無明が何かは難しいですが)。大切なのは、修行して、解脱し、苦(最後の苦は死の問題)から解放され、エゴイズムで他者を害しないことでしょう。そのほとんど同じ仏道が、今は禅とよばれています。この坐禅して、エゴイズムの自我を反省し、解脱(悟る)して、苦から解放される、その実践によって他者の苦悩の解決援助ができるという臨床的な実践、などの積極的、主体的、社会貢献的な教えを応援してくれる研究が少ない。

仏教の学問は対象を正しく見ていない

 もそも学問とは、学問対象の事象の真実をあきらかにすることであるはずです。医学という学問は、人間の病気の症状、原因などを明らかにします。歴史学は、人間の過去の行為を明らかにします。仏教学は、人間の宗教行為を明らかにしてもいいはずです。

「認知のゆがみ」によって、仏教の範囲、条件を限定する研究者
 禅や十二支縁起説、無我説は、歴史的に存在した宗教の思想と実践の、ごく一部にすぎないと思います。そのどれか一つを、絶対視して、他の宗教行為、救済の実践を排斥する原理主義的態度が学問の分野でみられます。
 在した仏教の宗教行為の全体とともに、その最も重要な部分(初期経典では「心材」にたとえています。葉や皮ではなく。)を学問はあきらかにすべきです。しかし、現代までの仏教学は、縁起説が最も重要な唯一の仏教である条件(研究者に多い)、あるいは、ただ坐禅のみを条件(禅宗の僧侶と、それを支持する研究者に多い)としている学説が多いのですが、学問が宗教現象の全体の真実をとらえていないのだと思います。自分の心を安定させるという自利(研究の喜び、思想を理解・解釈する喜び、教団内で坐禅を指導する立場にいる喜び、など)のために、都合のよい一部の文字だけを選択的に抽出し、それを絶対視し、拡大適用するような学説を作り上げる。こういうゆがんだ心理を臨床心理学(認知行動療法)では「認知のゆがみ」といっています。新しい宗教を作る者なら、それもいい。しかし、学者がそれでいいのでしょうか。
 教という宗教が現実に存在した、そして今もその精神を受け継いだものが存在していると思う。それは、持戒や修行や、苦の滅、他者の救済などの実践を重視した。それなのに、学問は、その重要な実践全体の意義をあきらかにしていない。その対象を学問が正確にとらえていない。だから、今の仏教教団もどこか釈尊の仏教精神とはかけ離れているように見えても、学問が、仏教は十二縁起だ、道元は目的のない坐禅のみだというから全く、かみあっておらず、学問が現代の宗教(他の宗教教団、新宗教をも含めて)をも批判できなくなっているのでしょう。道元禅師は、坐禅が悟りという遁世的学説を学者が強調するから、僧侶や社会人のエゴイズムを批判できない。学問が社会にほとんど貢献しない。

仏教の学問がおかしい
 のままの仏教(および、禅)の学問はおかしいと思います。仏教学は、対象の事実の全体を見ようとせず、自分の価値観や好み・感情、自分の宗教観で、自分のこころを満足させるために(「認知のゆがみ」)、学問対象を限定しようとする学説が多いように見えます。特に思想偏重、思想の優劣の研究に偏り、肝心の、人がどのように二元観、エゴイズム(これらも「認知のゆがみ」とされている)を自覚し苦悩から解放され、無明から脱出するかの宗教実践を無視する研究者が多いように見えます。本来の仏教とは何かの視点を持たず、ある国の、ある人物の偏向した「思想」のみの研究をしている学者もいます。本来の仏教がわからずに、特定人物の偏向した思想を次々と比較研究している人もいます。それも必要なのでしょう。しかし、今、日本の社会にとって、そんなことをしている時なのでしょうか。
 を条件として、仏教ではないと、きめつけているのか。逆に、どういう意味で、縁起説だけが仏教だときめつけるのか。どういう論理で坐禅だけ、あるいは、縁起を思惟しつづけるのが道元の教えだときめつけるのか。ほかの主張を全面的に否定していいのか。その条件づけが学問的に正しいのか、そこを徹底的に追求する必要があります。
 究者は、仏教用語、仏教思想に詳しい知識があることを重視し喜び、己れ自身のエゴイズムにさえ自覚がないように見えます。それで本来の仏教を明らかにできるのか、研究者の心理学(「認知のゆがみ」)、自己洞察を厳しく探求する必要があります。

(注)