高崎直道氏
??? 疑問の説=慈悲の坐禅はエリート主義、差別性 ???
高崎直道氏=<上からの>慈悲性
高崎直道氏の次の言葉が禅僧の世間での積極的な救済をはばんだ可能性がある。「在家の救済」をいうと、エリート主義で「悪くも一つの特質であると」批判されるおそれがある。
「この「発菩提心」について、道元は、
「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」(『正法眼蔵』「発菩提心」)
という。これは『涅槃経』の「自未得度先度他」という経文をうけたもので、大乗のぼさつの本質を示すことばである。ぼさつは、この心根のゆえに、「つひにほとけにならず」永遠に衆生済度に尽くすといわれる。
右の句があり、「発菩提心」「発無上心」等の巻々があり、また「菩提薩た四摂法」の巻のように、そのぼさつの四つの利他行ー布施(他人へのほどこし)・愛語(慈愛のこもったことばづかい)・利行(社会を益する行為)・同事(自他融合し、他人の身になって考えること)−を説くにもかかわらず、なお道元の著作全体からうける印象としては、利他の慈悲面が希薄で、もっぱら学道、つまり自己の究明に急であるように思われる。身心脱落の学道には自己も他己もない道理ではあるが道心なきもの、打坐せざるものを切り捨て御免にする向きがある。どんなに在家成仏の可能性を説き、女人禁制をひがごとといっていて(『正法眼蔵』「礼拝得髄」参照)も、やはり「出家せざるには得道せず」というほうが道元の本音なのだなと思わせてしまうわけである。
実は、仏教の本筋からいえば(次章で再説する)、仏の説法(転法輪)こそが仏の慈悲行にほかならないのであるから、『正法眼蔵』九五巻の<道得>に、道元の大慈悲がみられるのである。そして、如浄の、また、如浄からそれを学んだ道元の、ともに確信するところは、『宝慶記』に記されているところの、
「仏祖の大悲を先として、誓って一切衆生を度するの坐禅」
ということ、も少し説明を加えると、
「仏祖の坐禅といふは、初発心より一切の仏法(仏のもつ徳性)を集めん(身につける)ことを願ふ。ゆゑに、坐禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし、昆虫にも常に慈念を給して、誓って済度せんことを長ひ、あらゆる功徳を一切に廻向す(ふりむける)」
にある。これはまさにそのとおりであり、衆生済度の気持なくしてなんの坐禅ぞ、というところである。しかし同時に、だれかが指摘していたように、これには「おれが救ってやるぞ、おれが救わねば」という、エリート臭が払拭できないことは否定できないであろう。いわば<上からの>慈悲性である。これは道元の貴族性もさることながら、禅のもつ、よくも悪くも一つの特質である。」
この本は、曹洞宗の僧侶、学者なら、必ず読んだであろう。学者がこういわれると、仏教が、積極的に在家の苦悩を救うもの、と言いにくいであろう。エリート主義、差別性、傲慢と攻撃されるおそれがある。
(注)
- (1)高崎直道『古仏のまねび<道元>』角川書店、昭和44年、126-126頁。