酒井得元氏
??? 疑問の説=坐禅するのみで衆生を救うとか目標はない ???
高崎直道氏の言葉が禅僧の世間での積極的な救済を怠る口実に利用された可能性がある。道元の坐禅は目標がないということを誇りとする禅僧も、世間の人々の苦悩の援助を積極的に行うことをしない思想と通じるものがあるだろう。
自分が坐禅することが利他であるというが、利他をしない自己弁護ではないか。
酒井得元氏=坐禅するのみで衆生を救うとか目標はない
酒井得元氏は、他者を救うことなく、自分で坐禅することが「化他」である、と解釈される。坐禅には「目標がない」という。だから、他者を救うという目標がない。通常、「化他」といえば、自分の救済ではなくて、仏教修行で得たもので、苦悩する他者に説くことであるが、酒井氏は、説法(誇示)不要とされた。「潜行密用」ただ、坐禅するだけでよい、坐禅するのが化他だというのである。
「「自行化他」の語は、『正法眼蔵』の中には見られない。したがってこれは二祖の独特の語であったと言って差支えないだろう。つまり「光明蔵三昧」を修行することが、「自行化他」であったということである。この自行化他ということは、自行が化他であるということで、一般的用語になっている「上求菩提 下化衆生」・「自利利他」といったものとは、全く次元の異なる、純一な行であったのである。つまり「上求菩提」には目標である菩提があり、またそれは衆生を対手にして努めることでもあった、したがって「無所得・無所悟」でない。自行はどこまでも「無所得・無所悟」であって目標はない。なぜならばそれが「光明蔵三昧の脱体」であったからである。つまりそれが「尽十方界真実人体」の実修実証であったからである。そしてこの尽十方界真実の実証こそが、化他であったのである。
『正法眼蔵』発菩提心の巻に、「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」とあり、これが発菩提心の全てであり、つまりこれが衆生を利益することであった。ところがこの「衆生を利益するといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむなり」ということであったというのであった。そして、しかも「われほとけにならんとおもふべからず」であった。この高祖のお示しによって、自行化他の意が理解して貰えるのではなかろうか。
この自行化他こそ不染汚の行であった。そしてそこには人に誇示するものは、いささかもない、その行の実態が潜行密用であったのである。」(1)
著名な禅僧、沢木興道氏も、目的を持たない坐禅を主張した。酒井氏は、それを絶賛している(2)。ここにも、苦悩する在家は見えない。世間に積極的に出ていこうという大乗の慈悲行の実践的・現実的思想はない。
(注)
- (1)酒井得元『光明蔵三昧』大法輪閣、昭和44年、473頁。
- (2)酒井得元「禅界の現状とその問題ー曹洞宗」(『講座・禅』筑摩書房、昭和43年、147頁)