「正信論争」以後現代まで=なおも自己の信仰を学とする
??? 疑問の説=衛藤即応氏=道元は面授嗣法という新しい仏法を始めた ???
曹洞宗系の学者は、明治以来、客観的でなく、自分の「信仰的独白」で論じた、そして、その手法が現代まで変らない、と佐橋法龍氏がいった。その佐橋氏が批判した時期以後、平成になっても、その傾向は変らない。
この記事では、衛藤即応氏の説を見る。
その後も変らず「信仰独白」
「正信論争」は昭和十年ころに、ほとんど終わったが、佐橋法龍氏によれば、その後の宗学研究においても、客観的な学は進展せず、「信仰的独白」としての宗学に後退した状況が続いた。佐橋氏は、衛藤即応氏、榑林皓堂氏までに言及し、やはり、これらも「信仰的独白」に後退していると批判される学説である。
衛藤即応氏
衛藤即応博士が、正信論争後、宗学のあり方を論じた論文を発表し、「宗学研究に大きな啓示を与えたかのようであった」(1)。しかし、結果的には、佐橋法龍氏から、次のような厳しい批判がある。
「博士自身、如何なる理由によってこうした見解を放棄したものか、後に公にした「宗祖としての道元禅師」(博士の学位請求論文・昭和十九年刊)の随処にみられるように、「信仰的独白」としての宗学に後退してしまっているのである。」(2)
(注)
- (1)佐橋法龍「曹洞宗学の研究的発展を妨げるもの」(「道元思想体系21」(思想篇 第15巻ー道元思想の現代的課題)同朋舎出版、1995年)、331頁。
- (2)同上、332頁。
如浄に初めて会った時に身心脱落し、新しい仏法を展開
確かに、衛藤博士は、面授嗣法と、坐禅の仏法が道元の新しい展開であるという立場を固執されたようで、強引とも思える解釈、誤解などがある。博士自身のは、一つの立場に立たない宗学が必要であるという高邁な構想があったが、その後発表された論文を見ると、江戸時代に確立したという面授嗣法の思想をあくまでも絶対死守という護教的(教団組織の方針を守る)立場をとっておられる。佐橋氏がいうように、何か、学問の発展を妨げるものがあるのか。
道元の著書の論旨を真摯に考察しようとせず、博士の「信仰的独白」あるいは、教団の方針に都合よくあわせた無理な解釈になっている例を、二、三あげておく。
悟道ということはない、と主張する研究者が多いが、衛藤氏は、道元自身の悟道は肯定する。道元は身心脱落という体験があったが、日本に戻り仏法を説くときには、面授時嗣法という新しい仏法を説いたとする。衛藤氏は、道元自身の叱咤時脱落を認めて、その脱落してから回顧してみると、如浄に面授した時に大事了畢していたことに気づいたとする。「身心脱落は 修学の完成」とする。
「面授」巻の言葉を根拠として、こういう。
「然るに其の後の祗管打坐の修行に依って、坐睡の僧に対する天童の垂戒を偶然の機縁として、身心脱落し得た道元禅師が、改めて初相見を追懐するに、此の時已に大事了畢してゐたことに気づかれたのである。」(1)
「初相見の礼拝面授よりのち、其の堂奥に出入りすることを許されて親しき提撕を受け、遂に身心脱落の印證を得て、正伝面授の仏法を保任して帰朝したという事実そのままの率直なる叙述であるから、身心脱落に依りて面授の仏法が新たに生まれたといふことは、一時の思ひつきや推定ではなく、禅師自身の此の明白なる證言を得ては、そこに疑議を容るべき余地は秋毫もない。(中略)
因みに、面授といふ語は、宗祖以前の伝燈諸録には全く見当たらない。只圭峯の禅源諸詮集都序巻下に、「況覆尋其始、親稟釋迦、代代相承、一一面授、三十七世」とあるのが恐らくは始めであらう。然らば天童の「面授の法門現成」の一語といふよりは、寧ろ此の感激すべき初相見の一事実に依って、道元禅師は新たなる仏法を展開したものといふべきである。」(2)
(注)
- (1)衛藤即応「宗祖としての道元禅師」岩波書店、(1944年第一刷)94年の5刷、325頁。
- (2)同上、326頁。
正伝するのは坐禅のみ、行が目的
道元は、三つの證をいうのであるが、衛藤即応氏は、第二の證のみをいう。いわゆる、ある時、第一、第二の證が事実であったことを證得する「證」を得よという道元の主張を言わず、「悟道」の必要性を強調したことを否定する。
「教行證一等が正伝の仏法の根本の立場であるから、證が證果として、修行の目標として前方に在るのではなく、行に於て現成せる證である。そこで不染汚の行としての坐禅が中心となつて、坐禅を生命とする仏法が正伝の仏法となるのである。」(1)
「直に法の根源に立って證より行へといふ正伝の仏法の立場からは、仏法の正門は成正覚の姿である坐禅より他にはあり得ない。」(2)
「前に正伝の仏法は純一の仏法であることを明かにしたが、純一の仏法の行は純粋行でなければならぬ。而して純粋美がインテレストを離れたものといはるるが如く、純粋行とは為にすることなき行である。何か為にすることのある行はインテレストを持つ美術品が工芸品であつて、其の利用価値が相対的であるが如く、其の行は相対的の価値しかもつてゐない。今日の生活が明日の為にといふのでは、其の生活は明日の為の手段に過ぎないものとなつて、「此の一日の身命は貴ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり。」とはなつて来ない。然し為にすることなき行を誤ると、漠然たる無意識の行の如く思はるるが、「修證は無にあらず、染汚することえを得ず」といふ不染汚の行が、即ち純粋行であって、目的がないのではない。目的そのものになることであり、行即自己であり、坐禅即坐仏であつて、行を離れて自己はないといふことである。」(3)
こういう説は、道元の著作、思想の全体を客観的に評価したとはいいがたく、衛藤氏の「信念」(あるいは、厳しくいえば「辺執見」)によって、道元の言葉のごく一部を選びとり、独自の(道元の意図をはみだして)解釈を付す手法である。江戸時代に採用した教団の解釈方針を合理化する。本来の仏教や、道元がいう「慧」の内容のある(自己のエゴイズムを捨棄し他者の苦悩を救済する「慧」を得る)真摯な修行が失われ形式的に一定時間、坐禅すればよいとする堕落した坐禅でも肯定される。
徐々に学問における偏見が指摘されるようになった。組織の古い解釈を絶対死守するという護教的な立場からの解釈は、宗門の利益よりも社会の公的利益に立つべきであると考える僧侶、研究者からは、「学問的」とはいいがたく「信仰的独白」というべき解釈である。簡単な批判を、「反対意見」の項に記す。
(注)
- (1)衛藤即応「宗祖としての道元禅師」岩波書店、(1944年第一刷)94年の5刷、207頁。
- (2)同上、211頁。
- (3)同上、211-212頁。